関ヶ原から江戸時代前期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 12:33 UTC 版)
秀吉の死後、慶長5年(1600年)、上杉景勝は関ヶ原の戦いに際して徳川家康に敵対し、米沢藩30万石(出羽置賜、陸奥伊達、信夫2郡)に減封され、置賜の米沢城を本拠と定めた。 信達(しんたつ)の両郡には郡代や奉行として佐藤氏や小笠原(古川)氏を置き、信夫郡の福島城、伊達郡の梁川城など両郡内の支城には、本庄氏や春日(香坂)氏、芋川氏などを城主(城代)として統治させた。 上杉定勝は彼らを肝煎として、福島盆地に西根堰(にしねぜき)水路を完成させ、耕地面積を飛躍的に拡大した。 寛文4年(1664年)、定勝の子(景勝の孫)綱勝が、子供の無いまま急死して断絶の危機を迎えたが、綱勝の舅保科正之(3代将軍徳川家光の庶弟)の尽力により、綱勝の甥で妹婿吉良義央(上野介、扇谷上杉家の女系子孫)の子綱憲が綱勝に養子入りした結果、半知15万石で家名存続することを許された。 上杉綱憲は教学振興や歴史編纂といった文治政治に力を入れている。米沢藩学館の始めとなる聖堂・学問所を建設し、聖堂の扁額を「感麟殿」とする。 上杉氏は相次ぐ減封により規模を縮小させたが、越後春日山から持ち込んだ上杉謙信の遺骸を漆で密封した甕を米沢城の本丸内に安置し、謙信崇拝に基づいた誇り高い士風を守った。寛文の半知以後も、中山城・鮎貝城・荒砥城・小国城(館山城については諸説あり)を支城として保持し続ける。一国一城令からも15万石減封からも相当の年数が経ってから、支城を「役屋」、城主(城代)を「役屋将」と改称している。 上杉宗房は、元文3年(1738年)に藩政改革の開巻劈頭となる、年貢分延納を許可する政策などを打ち出す。寛保2年(1742年)には幕府から善政を評価され、旧領であった置賜郡の屋代および村山郡の5万2千石が米沢藩預かり領となり、高畠城と漆山陣屋に城代と役屋将を派遣する。延享3年(1746年)に改革半ばで早世、次々代の治憲(鷹山)まで改革はいったん頓挫することとなった。
※この「関ヶ原から江戸時代前期」の解説は、「上杉氏」の解説の一部です。
「関ヶ原から江戸時代前期」を含む「上杉氏」の記事については、「上杉氏」の概要を参照ください。
- 関ヶ原から江戸時代前期のページへのリンク