関ヶ原から江戸時代とは? わかりやすく解説

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関ヶ原から江戸時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/17 04:20 UTC 版)

相良頼房」の記事における「関ヶ原から江戸時代」の解説

慶長4年1599年1月後陽成天皇より従五位下左衛門佐叙された。また、豊臣姓を下賜された。この年6月秋月種実の娘を妻とした。伊集院忠棟伏見誅殺されて、薩摩庄内の乱が起こると、徳川家康命令で頼房も鎮圧側で出陣したまた、相良藩でも似たような事件あり、かつて兄・忠房が相続した時、相良頼貞擁した上村長陸朝鮮の役最中謀叛企てたという容疑で、瑞祥寺門外でこれを斬った。 慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いでは、初め石田三成従い、頼房は犬童頼兄従えて上京西軍加わって伏見城の戦いなどに参加し相良家臣・神瀬九兵衛先登の功をあげた。しかし他方で、頼兄は、家康家臣井伊直政内通して謀議進めていた。大垣城籠城中の9月15日関ヶ原本戦西軍壊滅すると、頼房は犬童頼兄の策を実行移し同じく籠城していた秋月種長高橋元種兄弟東軍水野勝成工作内応したこともあり、これと共同東軍寝返り熊谷直盛垣見一直木村由信木村豊父子らを城内謀殺し、東軍降伏した23日には大垣城守将の福原長堯も城を東軍明け渡して投降した福原謀殺しその首を取ったのも相良の者という説もある。頼房と頼兄は不承不承西軍についた主張し井伊内通していたことから、家康所領安堵許され人吉藩2万石の初代藩主となった犬童頼兄この頃より専断徴候見せ始め家康不興買ったが、次第藩政実権固めたこの頃から、頼房は人吉城改築本格的に始めた慶長9年1604年6月、頼房は伏見にいた老母・了信尼を江戸人質として差し出したが、これは西国大名母として最初江戸詰の例だったので、徳川秀忠喜び備前長の刀を授け老母にも終生月俸50口を与えた大坂の冬陣には出陣せず、夏の陣には一応出征したが、到着した時には戦闘はすでに終わっていた。 慶長12年1617年)、頼房は嫡子長寿丸を連れて駿府家康拝謁し江戸で秀忠拝謁した。このとき長寿丸は頼尚と名を改めた元和元年1620年)、椎葉騒動があって相良藩鎮圧参加したが、幕府軍山中での戦い難航結局は数百名が斬首され、椎葉村一帯天領となるが、鎮圧功績秀忠評価されて、その管理実質的な支配隣接する相良藩任された。 寛永6年1629年)、江戸にて名乗り替えて左衛門佐を主に用いようになった寛永9年1632年)、年老いた頼房は大垣城裏切り殺した面々石田三成追善供養を頼兄に命じた。現在(相良藩菩提寺の)願成寺石田三成らの供養墓があるのはこのためである。 寛永13年1636年6月13日死去した享年63。跡を長男の頼寛が継いだ

※この「関ヶ原から江戸時代」の解説は、「相良頼房」の解説の一部です。
「関ヶ原から江戸時代」を含む「相良頼房」の記事については、「相良頼房」の概要を参照ください。

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