関ヶ原から江戸時代
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慶長4年(1599年)1月、後陽成天皇より従五位下・左衛門佐に叙された。また、豊臣姓を下賜された。この年の6月、秋月種実の娘を妻とした。伊集院忠棟が伏見で誅殺されて、薩摩で庄内の乱が起こると、徳川家康の命令で頼房も鎮圧側で出陣した。また、相良藩でも似たような事件があり、かつて兄・忠房が相続した時、相良頼貞を擁した上村長陸が朝鮮の役の最中に謀叛を企てたという容疑で、瑞祥寺門外でこれを斬った。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、初めは石田三成の檄に従い、頼房は犬童頼兄を従えて上京。西軍に加わって伏見城の戦いなどに参加し、相良家臣・神瀬九兵衛は先登の功をあげた。しかし他方で、頼兄は、家康家臣の井伊直政と内通して謀議を進めていた。大垣城籠城中の9月15日、関ヶ原本戦で西軍が壊滅すると、頼房は犬童頼兄の策を実行に移し、同じく籠城していた秋月種長・高橋元種兄弟も東軍の水野勝成の工作で内応したこともあり、これと共同で東軍に寝返り、熊谷直盛、垣見一直、木村由信・木村豊統父子らを城内で謀殺し、東軍に降伏した。23日には大垣城守将の福原長堯も城を東軍に明け渡して投降した。福原を謀殺しその首を取ったのも相良の者という説もある。頼房と頼兄は不承不承に西軍についたと主張し、井伊に内通していたことから、家康に所領を安堵を許され、人吉藩2万石の初代藩主となった。犬童頼兄はこの頃より専断の徴候を見せ始め、家康の不興を買ったが、次第に藩政の実権を固めた。 この頃から、頼房は人吉城の改築を本格的に始めた。 慶長9年(1604年)6月、頼房は伏見にいた老母・了信尼を江戸に人質として差し出したが、これは西国の大名の母としては最初の江戸詰の例だったので、徳川秀忠は喜び、備前実長の刀を授け、老母にも終生月俸50口を与えた。 大坂の冬陣には出陣せず、夏の陣には一応出征したが、到着した時には戦闘はすでに終わっていた。 慶長12年(1617年)、頼房は嫡子・長寿丸を連れて駿府で家康に拝謁し、江戸でも秀忠に拝謁した。このとき長寿丸は頼尚と名を改めた。元和元年(1620年)、椎葉山騒動があって相良藩も鎮圧に参加したが、幕府軍の山中での戦いは難航。結局は、数百名が斬首され、椎葉村一帯が天領となるが、鎮圧の功績が秀忠に評価されて、その管理と実質的な支配は隣接する相良藩に任された。 寛永6年(1629年)、江戸にて名乗りを替えて左衛門佐を主に用いるようになった。寛永9年(1632年)、年老いた頼房は大垣城で裏切り殺した面々と石田三成の追善供養を頼兄に命じた。現在(相良藩菩提寺の)願成寺に石田三成らの供養墓があるのはこのためである。 寛永13年(1636年)6月13日に死去した。享年63。跡を長男の頼寛が継いだ。
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