関ヶ原の合戦前後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 09:57 UTC 版)
慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦の前の6月18日、諸大名を動員して上杉景勝討伐に向かう家康が石部宿に到着した。しかし西軍とされた長束正家の策謀を疑い、長束の領地である水口城下を夜間ひそかに通り抜けた際、本多忠勝、渡辺守綱、水野正重らと共に護衛にあたった。正就ら鉄砲頭は火縄に火をつけた臨戦状態で警戒した。 6月22日、正就は上杉景勝の支配する白川小峰城(白河城)に向け派遣された。大田原晴清の援軍として皆川広照、皆川隆庸らと共に下野国の大田原城へ入り、家康より預かった鉄砲の配備し、また宇都宮の守備にあたる。この時、大田原城に運び込まれた鉄砲の数については、史料により「鉄砲100挺」「長筒の鉄砲10挺」「大砲10挺」「大砲15挺」などの差異がある。 9月15日の関ケ原の合戦の本戦には参加せず、下野黒羽城にて親族の服部保英(伊賀衆100人)、岡部長盛(甲賀衆100人)、黒羽城主大関資増、千本義定(那須衆)と共に対上杉として防衛に籠っている。また、8月中に白河城の偵察に伊賀者を3人送り込み、その報告を検討した上で岡部長盛とともに、徳川方対上杉軍総大将の結城秀康に「速やかに白河城を攻めるべし」と進言したが、秀康は家康から守勢を厳命されていたこともあり、「今は形勢に従う」と沙汰され、白河城攻めは中止となる。 翌慶長6年(1601年)7月、正就は鉄砲3挺と玉薬を城付武具として残し、大田原城を退去し、その後は江戸にて秀忠に仕えた。
※この「関ヶ原の合戦前後」の解説は、「服部正就」の解説の一部です。
「関ヶ原の合戦前後」を含む「服部正就」の記事については、「服部正就」の概要を参照ください。
- 関ヶ原の合戦前後のページへのリンク