関ヶ原と西国の太守
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慶長3年(1598年)8月、秀吉が没すると家康に接近した。また、福島正則や加藤清正ら武断派の諸将らと共に行動し、文治派の石田三成らと対立した。 慶長4年(1599年)閏3月3日、武断派と文治派の仲裁をしていた前田利家が死去すると、七将の一人として福島正則・加藤清正・加藤嘉明・浅野幸長・黒田長政らと共に石田三成襲撃事件を起こした。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは、前哨戦となった織田秀信の守る岐阜城攻略に参加しており、岐阜周辺から西美濃一帯の村や寺院には、八月日付で輝政が出した禁制が多数残されている。禁制を大量発給し広域的に人々の安全を保証することで占領・支配の円滑化を図っており、地域社会も一斉にそれになびいた様子が窺える(岐阜城の戦い)。本戦では毛利秀元や吉川広家ら南宮山の西軍の抑えを務めており、直接の戦闘はなかった。 慶長6年(1601年)2月8日、徳川秀忠が輝政邸を訪れたが、これは関ヶ原以後初めての外様大名の屋敷への御成であったとされる(『落穂集』)。 戦後、岐阜城攻略の功績から播磨姫路52万石に加増移封され、初代姫路藩主となった。ここに輝政は国持大名としての政治的地位を獲得したのであり、その知行方は当時でも八番目に高いものであった。12月には従四位下・右近衛権少将に叙任された。関ヶ原合戦以後における徳川氏一門以外の大名における少将以上の任官は、前年3月における福島正則に次いでのものであり、初期徳川政権における両者の政治的役割の高さを示すものである。 慶長6年(1601年)から慶長14年(1609年)にかけて、姫路城を大規模に改修する。 慶長11年(1606年)以降、姫路城と同時進行で加古川流域の改修も始め、加古川の上流の田高川の河川開発事業や下流域の高砂の都市開発事業を行った。また、諸大名らと共に、慶長11年(1606年)の江戸城普請、同14年(1609年)の篠山城普請、翌15年(1610年)の名古屋城普請など、天下普請にも従事し、篠山城普請では総普請奉行を務めた。 慶長14年(1609年)、火災で焼失した伊勢神宮の摩尼殿を再建している。 慶長16年(1611年)3月、二条城における家康と豊臣秀頼との会見に同席した。 慶長17年(1612年)、正三位参議、および松平姓を許され「松平播磨宰相」と称された。徳川政権下において、徳川一門以外の大名で参議に任官されたのは輝政が最初である。また、五男・忠継の備前岡山藩28万石、六男・忠雄の淡路洲本藩6万石、弟・長吉の因幡鳥取藩6万石を合せ、一族で計92万石(一説に検地して100万石)もの大領を有した。徳川家との縁組は家格を大いに引き上げ、明治維新に至るまで池田家が繁栄する基盤となった。 慶長17年(1612年)1月、輝政は中風にかかり、3月には徳川秀忠から息子の利隆に4通もの書状が送られている。8月には回復し駿府、江戸を訪れた。23日に秀忠に拝謁した際松平氏を賜り参議に奏請された。参議に任じられたことを謝するため、10月17日に参内し、その後播磨へと帰国した。 慶長18年(1613年)1月25日、輝政は姫路にて死去した。死因は中風(『駿府記』)。享年50。なお輝政が中風を患ったと本多正純から事情を聴いた家康は、中風の薬として烏犀円を遣わしている。豊臣秀頼の重臣らが輝政の死を聞いて愕然として「輝政は大坂の押へなり。輝政世にあらん限りは、関東より気遣ひなく、秀頼公の御身の上無事成るべし。輝政卒去の上は大坂は急に亡さるべし」(『埋礼水』)と語ったという逸話がある。 家督は長男(嫡男)の利隆が継いだ。
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