徳川家との縁組とは? わかりやすく解説

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徳川家との縁組

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 04:45 UTC 版)

浅野幸長」の記事における「徳川家との縁組」の解説

慶長13年1608年)、幸長の娘・春姫高原院)が家康の九男・尾張大納言徳川義直婚約した慶長14年1609年5月18日幸長老臣松原内記臥所で(男色関係にあった小姓・左内に殺されるという不祥事があり、幸長はこれを家康申開きするということがあった。 慶長15年1612年2月義直居城となる名古屋城普請所謂天下普請)に、幸長加藤清正福島正則池田輝政ら、20大名携わった。同じ年、義直春姫縁組公表されたが、義直病気などのために婚儀順延となった同年4月19日、弟の長晟に対して豊臣秀頼から知行2,000石を加増するという書状があったので、幸長幕府伺いを立てている。 慶長16年1611年3月28日後陽成天皇後水尾天皇への譲位に際して、秀頼が二条城登城し千姫祖父家康会見することになり、秀頼の親族福島正則加藤清正幸長警護役に指名されるが、正則罹患理由辞退したため、清正幸長2人家康と秀頼の対面の場に同席してその警備行った4月7日、父・長政亡くなった長政隠居料5万石は、下の弟の長重与えられた。清正肥後国帰国し6月24日亡くなった慶長18年1613年8月25日幸長和歌山病死した。享年38幸長には男子がなかったため、次弟の長晟が家督継いだ晩年病気平癒願ってキリスト教信奉していたという。春姫にも洗礼名があった。なお、春姫松平忠昌正室となった花姫は子女儲けることが無かったため、幸長直系の子孫はいない。 慶長20年1615年2月15日尾張藩より成瀬正成竹腰正信使いとして浅野家に来て幸長の死で破談になった噂されていた春姫義直祝言4月に行うと告げた。しかし3月1日祝言6月延期するという知らせ駿府家康のもとから来た。ところが、やはり4月に行うということになって4月12日婚儀執り行われた。白銀2000両などが家康への持参金として支払われ、驚くほど豪華な婚儀であった。また14日には豊臣秀頼祝儀として刀・呉服などを下賜した。これは大坂夏の陣が始まる直前であり、戦端開かれる前に婚儀を行うか、開かれた後に行うか揉めたわけである。1か月経たぬ5月8日大坂城落城して豊臣家滅亡したが、徳川家親族鞍替えした浅野家は末永く存続した。

※この「徳川家との縁組」の解説は、「浅野幸長」の解説の一部です。
「徳川家との縁組」を含む「浅野幸長」の記事については、「浅野幸長」の概要を参照ください。

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