徳川家との縁組
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慶長13年(1608年)、幸長の娘・春姫(高原院)が家康の九男・尾張大納言徳川義直と婚約した。 慶長14年(1609年)5月18日、幸長の老臣・松原内記が臥所で(男色関係にあった)小姓・左内に殺されるという不祥事があり、幸長はこれを家康に申開きするということがあった。 慶長15年(1612年)2月、義直の居城となる名古屋城普請(所謂、天下普請)に、幸長・加藤清正・福島正則・池田輝政ら、20大名が携わった。同じ年、義直と春姫の縁組が公表されたが、義直の病気などのために婚儀は順延となった。同年4月19日、弟の長晟に対して、豊臣秀頼から知行2,000石を加増するという書状があったので、幸長は幕府に伺いを立てている。 慶長16年(1611年)3月28日、後陽成天皇の後水尾天皇への譲位に際して、秀頼が二条城に登城して千姫の祖父・家康と会見することになり、秀頼の親族の福島正則・加藤清正・幸長が警護役に指名されるが、正則が罹患を理由に辞退したため、清正と幸長の2人で家康と秀頼の対面の場に同席してその警備を行った。4月7日、父・長政が亡くなった。長政の隠居料5万石は、下の弟の長重に与えられた。清正は肥後国へ帰国し、6月24日に亡くなった。 慶長18年(1613年)8月25日、幸長は和歌山で病死した。享年38。幸長には男子がなかったため、次弟の長晟が家督を継いだ。晩年は病気平癒を願ってキリスト教を信奉していたという。春姫にも洗礼名があった。なお、春姫と松平忠昌の正室となった花姫は子女を儲けることが無かったため、幸長直系の子孫はいない。 慶長20年(1615年)2月15日、尾張藩より成瀬正成・竹腰正信が使いとして浅野家に来て、幸長の死で破談になったと噂されていた春姫と義直の祝言を4月に行うと告げた。しかし3月1日に祝言は6月に延期するという知らせが駿府の家康のもとから来た。ところが、やはり4月に行うということになって、4月12日に婚儀が執り行われた。白銀2000両などが家康への持参金として支払われ、驚くほど豪華な婚儀であった。また14日には豊臣秀頼も祝儀として刀・呉服などを下賜した。これは大坂夏の陣が始まる直前であり、戦端が開かれる前に婚儀を行うか、開かれた後に行うか揉めたわけである。1か月も経たぬ5月8日に大坂城は落城して豊臣家は滅亡したが、徳川家の親族に鞍替えした浅野家は末永く存続した。
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