関ヶ原の戦いから大坂の陣
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「安田能元」の記事における「関ヶ原の戦いから大坂の陣」の解説
慶長5年(1600年)、上杉氏征伐のため会津へ侵攻する徳川家康率いる東軍に備え、小峰城を守備し、革籠原にて島津忠直と共に一番隊を率いることになっていた。しかし東軍は反転し関ヶ原の戦いにおいて石田三成が率いる西軍を破った。そして慶長6年(1601年)、上杉氏が出羽国米沢30万石に減封されると、能元も浅香城、二本松城を退去した。 米沢に移ってからは、直江兼続などと共に城下町の整備や町割りなどを行い、能元の知行高は4330石となった。慶長7年(1602年)、直江兼続の主催によって大国実頼、岩井信能、春日元忠、前田利益などと共に亀岡文殊堂で歌会を行われ、その時の和歌や漢詩が「直江兼続等詩歌百首帖」として奉納されている。また、慶長17年(1612年)、直江兼続、水原親憲、岩井信能、山岸尚家、平林正恒と共に十七箇条の家中法度を制定する。 慶長19年(1614年)、大坂冬の陣に出陣する。当初、能元は第一陣に布陣する予定であったが、「第二陣に、第一陣よりもより強い大将を布陣させるべき」という景勝の陣立てによって、第二陣に下げられた。これは、第一陣に布陣された若い須田長義に名誉を与え能元を憤慨させて各自士気を高めること、激戦に備えて熟練の能元の部隊を温存させておくことに意味があったという。鴫野の戦いにおいて上杉勢は優勢であったが、数で勝る大野治房に徐々に押され始め、第一陣の須田隊は突き崩された。そこで、後詰部隊だった水原親憲が鉄砲隊を率いて大野隊を足止めし、安田隊は500の兵で大野隊に突撃し、見事敵軍を撃退した。 合戦後、戦功のあった武将達は、次々に徳川家康・秀忠父子から感状や褒美を与えられたが、能元には何も与えられなかった。これは、徳川氏との外交を担当した直江兼続との関係が、関ヶ原の戦い以降に険悪になったためといわれている。このことに対して能元は、「感状を賜らなかったからといって、そのことを決して不名誉とは思わない。それに自分は殿のために戦ったのであって、大御所様や将軍様のために戦ったのではない」と、関ヶ原の戦いで主家を徳川との戦いに導いておきながら大坂の陣で秀忠から感状を貰って喜んでいる兼続に皮肉を込めて語っている。それを聞いた兼続は何も答えることができなかったという。 元和8年6月25日(1622年8月2日)、66歳で死去。家督は那波氏から養子として迎えた俊広が継いだ。
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