関ヶ原の戦いから大坂の陣とは? わかりやすく解説

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関ヶ原の戦いから大坂の陣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 09:46 UTC 版)

安田能元」の記事における「関ヶ原の戦いから大坂の陣」の解説

慶長5年1600年)、上杉氏征伐のため会津侵攻する徳川家康率い東軍備え小峰城守備し革籠原にて島津忠直と共に一番隊率いることになっていた。しかし東軍反転し関ヶ原の戦いにおいて石田三成率い西軍破った。そして慶長6年1601年)、上杉氏出羽国米沢30万石減封されると、能元も浅香城、二本松城退去した。 米沢移ってからは、直江兼続などと共に城下町の整備町割りなどを行い、能元の知行高は4330石となった慶長7年1602年)、直江兼続主催によって大国実頼岩井信能春日元忠前田利益などと共に亀岡文殊堂で歌会行われその時和歌漢詩が「直江兼続詩歌百首帖」として奉納されている。また、慶長17年1612年)、直江兼続水原親憲岩井信能山岸尚家平林正恒と共に十七箇条家中法度制定する慶長19年1614年)、大坂冬の陣出陣する。当初、能元は第一陣に布陣する予定であったが、「第二陣に、第一陣よりもより強い大将布陣させるべき」という景勝陣立てによって、第二陣に下げられた。これは、第一陣に布陣された若い須田長義に名誉を与え能元を憤慨させて各自士気高めること、激戦備えて熟練の能元の部隊温存させておくことに意味があったという。鴫野の戦いにおいて上杉勢優勢であったが、数で勝る大野治房徐々に押され始め第一陣の須田隊は突き崩された。そこで、後詰部隊だった水原親憲鉄砲隊率いて大野隊を足止めし、安田隊は500の兵で大野隊に突撃し、見事敵軍撃退した合戦後戦功のあった武将達は、次々徳川家康秀忠父子から感状褒美与えられたが、能元には何も与えられなかった。これは、徳川氏との外交担当した直江兼続との関係が、関ヶ原の戦い以降険悪になったためといわれている。このことに対して能元は、「感状を賜らなかったからといってそのこと決し不名誉とは思わない。それに自分は殿のために戦ったであって大御所様や将軍様のために戦ったのではない」と、関ヶ原の戦い主家徳川との戦い導いておきながら大坂の陣秀忠から感状貰って喜んでいる兼続に皮肉を込めて語っている。それを聞いた兼続は何も答えることができなかったという。 元和8年6月25日1622年8月2日)、66歳で死去家督那波氏から養子として迎えた俊広が継いだ

※この「関ヶ原の戦いから大坂の陣」の解説は、「安田能元」の解説の一部です。
「関ヶ原の戦いから大坂の陣」を含む「安田能元」の記事については、「安田能元」の概要を参照ください。

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