畠山義紀とは? わかりやすく解説

畠山義紀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/24 04:12 UTC 版)

 
畠山義紀
時代 江戸時代中期
生誕 享保5年4月15日1720年5月21日
死没 寛政11年2月12日1799年3月17日
改名 貞千代(幼名)→義雄(初名)→義紀
別名 通称:織部
官位 従四位上侍従下総守
幕府 江戸幕府高家旗本
主君 徳川吉宗家重家治
氏族 上杉氏能登畠山氏(高家肝煎)
父母 父:上杉吉憲、母:側室:山本氏
養父:畠山義躬
兄弟 上杉宗憲上杉宗房義紀上杉重定
正室:畠山義躬娘
継室:上杉勝延[1]
日野資施(次男)、義周(三男)、
山本常誠(四男、小田原藩士山本常芳養子)ら五男六女
養子:義福、女子
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畠山 義紀(はたけやま よしとし)は、江戸時代中期の高家旗本能登系高家畠山家5代当主。

経歴

享保5年(1720年)、出羽国米沢藩5代藩主・上杉吉憲の三男として誕生する。元文元年(1736年)4月8日、3120石を知行していた高家旗本・畠山義躬と養子縁組を行う。元文4年(1739年)11月7日、8代将軍徳川吉宗御目見する。

元文5年(1740年)4月6日、家督を相続する。元文6年(1741年)には石高は3千100石で木挽町築地に居住していた。延享2年(1745年)2月15日、高家に就任し、従五位下・侍従・飛騨守に叙任する。後に従四位下に昇進し、下総守に改める。宝暦12年(1762年)6月5日、高家肝煎に就任する。それに伴い従四位上に昇進する。明和4年(1767年)閏9月12日、高家肝煎を辞職する。明和6年(1769年)4月5日、隠居し養子の義福[2]に家督を譲る。

寛政11年(1799年)2月12日、死去。享年80。

脚注

  1. ^ 幕府に届けず。
  2. ^ 高家旗本・畠山国祐の次男。




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