進藤正次とは? わかりやすく解説

進藤正次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/16 04:42 UTC 版)

進藤 正次(しんどう まさつぐ、永禄7年(1564年) - 慶長17年4月14日1612年5月14日))は、宇喜多氏家臣(知行600石)のち徳川氏幕臣(旗本・知行500石)。通称は三左衛門。

経歴

当初は宇喜多氏の家臣として、知行600石の本丸御番衆として仕えていた。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは国許に残らず、主君の宇喜多秀家に従って出陣した。戦に敗れると宇喜多と供に戦線を離脱し、宇喜多を薩摩国へ逃亡出来るよう手助けをした後、大坂城に出向いて徳川家康に対し、主君は敗走中の伊吹山山中で自害した、と嘘の報告をした。現場に彦坂元正日向政成が派遣され、新藤の証言通りに宇喜多の脇差が発見された。だがこののち直ぐに宇喜多の生存が明らかになり、新藤の謀は無に帰した。しかし家康に忠孝を賞されて、知行500石の旗本として召抱えられることになったとされる[1]

脚注

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出典

  1. ^ 尾池義雄『石田三成を中心に:関ケ原大戦の真相』537頁-539頁

参考文献


進藤 正次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/14 01:13 UTC 版)

進藤正次 (弘前藩)」の記事における「進藤 正次」の解説

1686年8月1日貞享3年6月13日))は、弘前藩家老剛直持って知られ弘前藩全盛期支えた通称庄兵衛進藤正吉の子

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