進藤正次
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進藤 正次(しんどう まさつぐ、永禄7年(1564年) - 慶長17年4月14日(1612年5月14日))は、宇喜多氏家臣(知行600石)のち徳川氏幕臣(旗本・知行500石)。通称は三左衛門。
経歴
当初は宇喜多氏の家臣として、知行600石の本丸御番衆として仕えていた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは国許に残らず、主君の宇喜多秀家に従って出陣した。戦に敗れると宇喜多と供に戦線を離脱し、宇喜多を薩摩国へ逃亡出来るよう手助けをした後、大坂城に出向いて徳川家康に対し、主君は敗走中の伊吹山山中で自害した、と嘘の報告をした。現場に彦坂元正と日向政成が派遣され、新藤の証言通りに宇喜多の脇差が発見された。だがこののち直ぐに宇喜多の生存が明らかになり、新藤の謀は無に帰した。しかし家康に忠孝を賞されて、知行500石の旗本として召抱えられることになったとされる[1]。
脚注
出典
- ^ 尾池義雄『石田三成を中心に:関ケ原大戦の真相』537頁-539頁
参考文献
進藤 正次
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/14 01:13 UTC 版)
「進藤正次 (弘前藩)」の記事における「進藤 正次」の解説
1686年8月1日(貞享3年6月13日))は、弘前藩家老。剛直を持って知られ弘前藩の全盛期を支えた。通称は庄兵衛。進藤正吉の子。
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