徳川家臣として
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「記録御用所本古文書」によれば、天正13年(1585年)5月30日には家康から甲斐国心経寺(甲府市心経寺町)など172貫文余の知行地を宛行われている。 なお、囚獄佑は富士山北麓の御師(富士御師)としても活動していたが、徳川氏の旗本になった際には檀家を河口御師・三浦外記(猿屋)に譲渡したという。 天正18年(1590年)の小田原征伐に従軍、7月に徳川氏が関東に転封されると随行し、武蔵国入間郡矢加賀村(埼玉県入間市)を給地とした。天正19年(1591年)の奥州出陣(九戸政実の乱)において、岩手沢(岩出山城、宮城県大崎市)まで出張するが、ここで病にかかって死去した。
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徳川家臣として
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正成は家康の合戦のほとんどに参加した、と伝えられている。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、松平重勝の隊に属して活躍した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康の旗本として本戦に参加したと思われるが、手柄などは伝わっていない。戦後に、西軍の宇喜多秀家の家臣の進藤正次が大坂城に入った家康の下に出頭し、主君の宇喜多は戦場近くの伊吹山山中で自害した、と証言した。この証言に基き、政成と彦坂元正が現地に派遣され、証言通りに宇喜多の脇差を発見している。ただしこの進藤の証言はのちに、宇喜多を逃すための虚言であったことが判明した。 この後は官僚・奉行的な仕事が多くなる。慶長6年(1601年)、再び徳川領となった甲斐国甲府の町奉行を、島田直時と共に務めている。慶長7年(1602年)、伊勢国・近江国・甲斐で郡代を務めている。慶長9年(1604年)、伊勢国奉行(のちの山田奉行)となった。一方で、慶長14年(1609年)の旧松平忠吉家臣(旧武田遺臣)による家康直訴未遂事件の際、家康に同行していた政成が事を収め、温情ある裁断をしたと伝わることから、相変わらず家康に近侍していたことがわかる。 奉行職などは、徳川家の財務を執り仕切っていた大久保長安の下で働いていたとみられるが、慶長18年(1613年)に大久保長安が失脚した際は、島田と共に大久保の抜けた甲斐国奉行に任命されており、連座はされなかったと推測される。
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