徳川家臣時代とは? わかりやすく解説

徳川家臣時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 13:46 UTC 版)

保科正俊」の記事における「徳川家臣時代」の解説

天正13年1585年8月、正直が第一次上田合戦出陣すると正俊が高遠城留守預かった。しかし12月石川数正家康の下から出奔すると、豊臣方寝返った松本小笠原貞慶3000余り率いて高遠攻め入った高遠城には老齢の正俊の他に騎馬40騎と雑兵360人程しかいなかったが、正俊が自ら指揮取り奇策用いて鉾持除の戦いで小笠原軍に大勝した。このことで信濃徳川方崩壊回避され徳川家康は正俊の戦功称え12月24日付で正直に包永太刀贈った

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徳川家臣時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 01:30 UTC 版)

大久保長安」の記事における「徳川家臣時代」の解説

甲斐武田家滅んだ後、長安徳川家康家臣として仕えるようになる家康甲州征伐の際に逗留用の仮館を長安建設したが、この時に家康がその館を見て長安作事才能見抜き仕官許したといわれている。また、一説では家康近臣で、旧武田家臣の成瀬正一通じて自分信玄にも認められ優秀な官僚であり、金山に関する才能恵まれていることを売り込んで家康仕えようになったともいわれている。 長安大久保忠隣与力任じられ、その庇護を受けることとなる。この際名字賜り、姓を大久保改めた天正10年6月本能寺の変信長死去して甲斐家康所領となる。しかし当時甲斐は、武田家滅亡後混乱から乱れていた。そこで家康本多正信伊奈忠次所務方に任じて甲斐内政再建命じた。ただし、実際に所務方として再建行なったのは長安であるとされている。長安釜無川笛吹川堤防復旧新田開発金山採掘などに尽力し、わずか数年甲斐内政再建したと言われている。 天正18年1590年)の小田原征伐後、家康関東に移ることになる。この時、長安青山忠成江戸町奉行)、伊奈忠次長谷川長綱彦坂元正と共に奉行代官頭)に任じられ家康関東入った後の土地台帳作成行なった。これは家康が後に関東家臣団所領分配する時に大い役立ったと言われている。 また、関東250万石のうち、100万石は家康直轄領となったが、この時に長安長谷川長綱彦坂元正伊奈忠次と共に関東代官頭として家康直轄領事務差配一切任されている。 天正19年1591年)には家康から武蔵国八王子(後に横山)に8,000石の所領与えられた。ただし、八王子以前支配していた北条氏照旧領そのまま与えられた形となったらしく、実際は9万石与えられていたという。長安八王子宿現・東京都八王子市)に陣屋を置き、八王子十八人代官を置き、宿場建設進め浅川氾濫を防ぐため土手築いた石見土手呼ばれている。 長安また、家康に対して武蔵治安維持国境警備重要さ指摘し八王子五百人同心創設具申し認められ、ここに旧武田家臣団を中心とした八王子五百人同心誕生した慶長4年1599年)には同心を倍に増やすことを家康から許され八王子千人同心となった慶長5年1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、長安忠次と共に徳川秀忠率い徳川軍輜重役を務めている。戦後豊臣氏支配下にあった佐渡金山生野銀山などが全て徳川氏直轄領になる。すると長安同年9月大和代官10月石見銀山検分役、11月佐渡金山接収役となる。 慶長6年1601年春に徳川四奉行補佐にて甲斐奉行8月石見奉行9月には美濃代官任じられた。これらは全て兼任の形で家康から任命されている。異例の昇進と言ってもよく、家康長安経理才能高く評価していたことがうかがえるのである慶長8年1603年2月12日家康将軍任命されると、長安特別に従五位下石見守叙任され家康の六男・松平忠輝の附家老任じられた。7月には佐渡奉行に、12月には所務奉行(後の勘定奉行)に任じられ同時に年寄(後の老中)に列せられた。 慶長10年1605年)、大久保長安普請奉行として武蔵御嶽神社本社普請慶長11年1606年2月には伊豆奉行にも任じられた。つまり長安家康から全国金銀山の統轄や、関東における交通網の整備一里塚建設などの一切任されていたのである。現在知られる里程標、すなわち1里=36町、1町=60間、1間=6尺という間尺整えたのも長安である。 これら一切奉行職兼務していた長安権勢強大であったと言われるまた、7人の息子石川康長池田輝政の娘と結婚させ、忠輝と伊達政宗長女五郎八姫結婚交渉取り持ち、忠輝の岳父政宗となったことから政宗とも親密な関係を築いていたと言われている。そのため、その権勢諸大名との人脈から「天下総代官」と称された。この頃長安所領八王子8,000石(実際は9万石)に加えて家康直轄領150万石実質的な支配任されていたと言われている。 慶長17年1612年7月27日中風にかかり、家康から烏犀円与えられている(『駿府記』)。 しかし晩年に入ると、全国鉱山からの金銀採掘量の低下から家康寵愛失い美濃代官初めとする代官職次々と罷免されていくようになる。さらに正室早世するなどの不幸も相次ぐ中で、慶長18年1613年4月25日中風のために死去した享年69長安死後生前の不正蓄財問われ、また長安の子蓄財調査拒否したため、慶長18年1613年7月9日長安嫡男藤十郎37歳)、次男外記36歳)、三男青山成国30歳)、四男・達十郎29歳)、五男・内膳27歳)、六男・右京長清23歳)、七男・安寿15歳)、以上7人は切腹となった。また縁戚関係諸大名改易などの憂き目にあった大久保長安事件)。

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