徳川家綱の時代
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幼弱の家綱に代わり、大政参与として幕政を補佐したのが彼の叔父に当たる会津藩主保科正之や老中酒井忠清等であった。彼は、浪人発生の原因である大名の改易を減らす為に末期養子の禁を緩和した。寛文3年(1663年)に武家諸法度を改正(寛文令)し、殉死を禁止し、大名からの人質を出す大名証人制度を廃止した。これにより、戦国時代からの遺風を消し、将軍と大名、藩主と家臣の主従関係は個人同士の関係から、主人の家に従者は仕える関係に転換することとなった。また、寛文4年(1664年)には寛文印知を実施し、将軍の地位を確立した。 この頃になると、農村では農地の分割相続により本百姓の零落が始まった頃であった。江戸幕府や各藩の財源は米に依存する為、本百姓を維持する為に延宝元年(1673年)に分地制限令を発布した。また、この時期は江戸が都市として拡大していく中で上水道の整備が課題となった為、玉川上水が整備された。また、諸藩も安定した平和による軍役の負担の軽減により藩政も安定し、寛永の大飢饉を背景に新田開発が進展し、結果として領内の経済も発展してきた。この時期に善政を行い、名君と呼ばれた藩主に前述の保科正之の他に岡山藩主池田光政、水戸藩主徳川光圀、加賀藩主前田綱紀が挙げられる。 しかし、明暦の大火による江戸の焼失と再建、佐渡相川金山からの金採掘の減少、諸物価に対する米価の下落は幕府財政を逼迫することとなった。保科正之が寛文9年(1669年)に隠居した後は大老に昇格した酒井忠清が稲葉正則・久世広之・土屋数直・板倉重矩ら老中達と共に家綱の上意を受けて集団指導体制を執り行うことになり、宗門改の徹底と全国への宗門人別改帳の作成命令、諸国巡見使の派遣、諸国山川掟の制定、河村瑞賢に命じて東廻海運・西廻海運を開拓させるなど全国の流通政策・経済政策の発展を促した。
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