武田家滅亡後
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武田家滅亡後は、信長に出仕した。信長は義昌に梨子地の太刀と黄金100枚を与えた。さらに信濃で二郡を与えるとの内命を伝えたとされ、深志城(後の松本城)に城代を置いて木曽の他・松本・安曇地方経営の拠点とした。しかし僅か3ヶ月後に本能寺の変が勃発すると、信濃国内も新たな支配権を巡って混乱し、義昌も北信濃の所領を放棄して美濃へと逃げる森長可の命を狙ったが、企みに気付いた長可に木曽福島城に押し入られ、逆に子の岩松丸(後の木曾義利)の身柄を拘束されてしまう。 岩松丸を人質に取られたことで義昌はやむなく遠山友忠など長可をよく思っていなかった近隣の諸将にも森軍に手出しをしないように依頼して回り、むしろ長可の撤退を助ける役目を負わされた。また、変後の信濃の混乱を好機と見た深志の旧領主・小笠原氏の旧臣が越後国の上杉景勝の後援を受けて前信濃守護・小笠原長時の弟である洞雪斎を擁立し、木曾方は深志城を奪われ、本領木曽谷へ撤退するに至った。武田家の遺領を巡り上杉景勝と徳川家康・北条氏直の三者が争うと(天正壬午の乱)、初めは氏直に従っていたが、8月の甲州黒駒合戦での後北条軍の敗北と、旧主の織田信孝の意向を仰ぎ、9月には家康に寝返り、他の信濃国衆から集めた人質を引き渡し、その代わりに再度安曇・筑摩両郡および木曽谷の安堵を受ける約定を得た。ところが、家康が小笠原長時の子・貞慶の深志城復帰を認めたことから、天正12年(1584年)、家康と羽柴秀吉の対立による小牧・長久手の戦いに呼応して、三男・義春を人質として秀吉に恭順。徳川勢を妻籠城にて迎え撃ち、撃退している。天正14年、秀吉と家康の講和により、木曾氏を含めた信濃の諸将は家康の傘下に入り、地方的な部将としての木曾氏の独立性は失われた。秀吉の北条攻めには病床におり出陣はできなかった。
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武田家滅亡後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/11 14:42 UTC 版)
武田家滅亡後は北条方から沼田城を守り、関ヶ原の戦いでは第二次上田合戦のときに真田昌幸方から真田信之方に寝返り、大坂の陣の際は信之の代理の真田信吉、真田信政と共に出陣。頼幸の死後、弟の頼邦が跡を継いだ。
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