武田家滅亡後とは? わかりやすく解説

武田家滅亡後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 08:09 UTC 版)

木曾義昌」の記事における「武田家滅亡後」の解説

武田家滅亡後は、信長出仕した信長義昌梨子地太刀黄金100枚与えた。さらに信濃で二郡を与えるとの内命伝えたとされ、深志城(後の松本城)に城代置いて木曽の他・松本安曇地方経営拠点とした。しかし僅か3ヶ月後に本能寺の変勃発すると、信濃国内も新たな支配権巡って混乱し義昌北信濃所領放棄して美濃へと逃げ森長可の命を狙ったが、企み気付いた長可に木曽福島城押し入られ逆に子の岩松丸(後の木曾義利)の身柄拘束されてしまう。 岩松丸を人質取られたことで義昌やむなく遠山友忠など長可をよく思っていなかった近隣諸将にも軍に手出しをしないよう依頼して回り、むしろ長可の撤退助け役目を負わされた。また、変後信濃混乱好機見た深志旧領主小笠原氏旧臣越後国の上景勝後援受けて前信守護小笠原長時の弟である洞雪斎擁立し木曾方深志城奪われ本領木曽谷撤退する至った武田家遺領巡り上杉景勝徳川家康北条氏直三者が争うと(天正壬午の乱)、初めは氏直に従っていたが、8月甲州黒駒合戦での後北条軍の敗北と、旧主織田信孝意向仰ぎ9月には家康寝返り、他の信濃国衆から集めた人質引き渡しその代わり再度安曇筑摩両郡および木曽谷安堵を受ける約定得た。ところが、家康小笠原長時の子貞慶深志城復帰認めたことから、天正12年1584年)、家康羽柴秀吉対立による小牧・長久手の戦い呼応して三男・義春を人質として秀吉恭順徳川勢妻籠城にて迎え撃ち撃退している。天正14年秀吉家康講和により、木曾氏含めた信濃諸将家康傘下入り地方的な部将としての木曾氏独立性失われた秀吉北条攻めには病床におり出陣はできなかった。

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武田家滅亡後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/11 14:42 UTC 版)

矢沢氏」の記事における「武田家滅亡後」の解説

武田家滅亡後は北条方から沼田城守り関ヶ原の戦いでは第二次上田合戦のときに真田昌幸方から真田信之方に寝返り大坂の陣の際は信之の代理真田信吉真田信政と共に出陣。頼幸の死後、弟の頼邦が跡を継いだ

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