武田家臣時代から近世大名化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 16:00 UTC 版)
「保科氏」の記事における「武田家臣時代から近世大名化」の解説
戦国時代になると、南信濃の高遠城主諏訪頼継の家老として「保科弾正」(あるいは筑前守、保科正則)の名が登場する。本来は北信濃の霞台城を本拠とする保科氏が南信濃に移った時期や理由などについては、長享年間に村上顕国との抗争に敗れて高遠に遷移したと見る向きもあるが、今日も真相は不明である。ただし、鎌倉時代以来諏訪神党の一つに数えられたことから、諏訪氏と密接な関係が築かれていたと考えられ、正則の跡を継いだ保科正俊は高遠氏家臣団では筆頭の地位にあったとされる。 天文21年(1552年)に旧主の高遠氏が武田氏の信濃侵攻により滅亡すると、正俊以下の旧家臣団は武田氏の傘下となる。正俊は軍役120騎を勤める高遠城将として数々の戦いで軍功を挙げ、跡を継いだ嫡男の正直も高遠城将として、武田氏滅亡時の高遠城主仁科盛信と共に奮戦している。 正直は高遠城落城の際に落ち延び、本能寺の変で信濃の織田勢力が瓦解した後、後北条氏を後ろ盾に高遠城奪還に成功する。そして後北条氏と徳川氏が信濃の旧織田領を巡って対立すると、徳川方に与して高遠城主としての地位を安堵される。 正直の子正光は小牧・長久手の戦い・小田原征伐に出陣、徳川氏の関東入府に際して下総国多胡で1万石を与えられ、大名に列した。関ヶ原の戦いの後には旧領に戻って高遠城主として2万5千石を領した。さらに大坂の陣での戦功により3万石に加増される。 正光の養嗣子として家督を相続した保科正之は、2代将軍徳川秀忠の庶子で、寛永13年(1636年)に出羽山形20万石を与えられ、さらに加増され会津へと移り、幕末まで続くことになる。ただ、保科姓を名乗ったのは正之と2代保科正経までで、その子孫は徳川家御家門として松平姓に改めている(正之本人は勧められても保科姓を守り通したとされる)。3代将軍家光と4代将軍家綱を補佐した正之は、玉川上水を開削して江戸の水不足に取り組み、米の備蓄で天災に備える制度を創設するなど、江戸太平の基礎を築いたとされる。また明暦の大火で焼け落ちた江戸城天守の復旧をせず、民への救済米としたと伝えられる。
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