第二次上田合戦とは? わかりやすく解説

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第二次上田合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 03:01 UTC 版)

上田合戦」の記事における「第二次上田合戦」の解説

昌幸や徳川家康上杉氏豊臣政権臣従後北条氏天正18年1590年)からの小田原征伐により没落し家康関東移封された。慶長3年1598年)、秀吉死去し豊臣政権では五大老筆頭地位にあった家康影響力が強まる。反徳川勢力は五奉行石田三成中心に結集し慶長5年1600年6月家康会津の上征伐の兵を起こして大坂離れると、三成毛利輝元総大将として西軍組織し挙兵した(関ヶ原の戦い)。 昌幸は東軍指揮執る家康に従っていたが、慶長5年1600年7月下旬下野次男真田信繁幸村とともに離反して上田帰還し西軍与した。これに対し長男の信幸は東軍従った通説では、西東軍どちらが勝利して真田一族残れるよう分かれたとされる。しかし近年は信之の妻が家康養女であり、信繁の妻は大谷吉継の娘で昌幸の妻が石田三成の妻とは姉妹の関係にあったことが理由指摘されている。 徳川家康指揮執る東軍は、下野国小山において三成西軍挙兵知って、軍を西に返した。この時、家康本隊豊臣恩顧大名などの先発隊は東海道進んだが、徳川秀忠指揮執る38000人の軍勢宇都宮留まり上杉への備え当たった後、信濃国平定のため中山道進んで上田城向かった9月2日秀忠小諸到着した9月3日、昌幸は上田接近した徳川軍に対して嫡男・信之を通して助命懇願してきたので秀忠はこれを受諾する、ところが4日になり昌幸は態度変え秀忠に対して挑発的な態度をとったため戦闘状態に入った秀忠軍は9月5日上田城接近し真田信繁の守る上田城支城戸石城対し信繁の兄である信之の軍勢差し向けると、真田信繁軍は撤退。これにより信之軍は戦わずして戸石城接収した一説によるとこれも昌幸の策とも。 戸石城落とした後、秀忠軍は9月6日牧野康成率い手勢上田城下の稲の刈り取り始めた苅田阻止しよう真田方の軍勢数百人が城から出てきたが敗れ上田城へと逃走。それを追撃し上田城大手門前まで迫ったが、ここで秀忠より撤退命令が下る。その後8日家康より上洛命令下り秀忠上田押さえの兵を残して美濃方面転進する。 通常、第二次上田合戦は『烈祖成績』に「我が軍大い敗れ死傷算なし」と記されるように、大規模な合戦が行われ秀忠軍が大敗し、またこの敗戦により関ヶ原合戦遅参したと考えられていた。しかしこれらを裏付ける当時史料無く家譜類に刈田起因とする小競り合い記載されるのみである。また秀忠上田城予想外に頑強であることに驚き9日に一旦全軍小諸へと撤収した直後家康書状携えた使者到着しその内容が「九月九日までに美濃赤坂着陣すべし」とされるが、森忠政秀忠文書から秀忠上洛の報を受けたのは先述のように8日の上田である。 秀忠上田城押さえの兵を残して先を急いだが、そもそも8日上洛命令到着したことから15日関ヶ原本戦には間に合うはずも無かった松代城にあった徳川方森忠政がこの戦闘後葛尾城に兵を置いて上田城見張らせていたことから、信繁夜討朝駆け敢行小競合い続いたとされるまた、追撃した牧野康成・忠成父子部下庇って出奔したため、一時謹慎となった

※この「第二次上田合戦」の解説は、「上田合戦」の解説の一部です。
「第二次上田合戦」を含む「上田合戦」の記事については、「上田合戦」の概要を参照ください。

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