第二次世界大戦 1941年–1945年
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「アメリカ合衆国の外交史」の記事における「第二次世界大戦 1941年–1945年」の解説
第二次世界大戦でも第一次のときと同じようなパターンが現れた。ヨーロッパ列強が戦争に突入して、海上封鎖が行われ、アメリカは公式には中立を守った。しかしアメリカはイギリスやその同盟国に肩入れし、結局は参戦することになった。第一次世界大戦の戦債とはことなり、アメリカはレンドリース法と呼ばれる法で連合国に対する大規模な軍事と経済の援助を認めた。戦争資材を生産するためにアメリカの工業は急速に拡張された。日本が1941年12月にハワイの真珠湾を急襲した後で、アメリカはドイツ、日本およびイタリアに公式に宣戦布告した。真珠湾攻撃はアメリカの戦艦艦隊を破壊したが、太平洋戦争でその作戦に効果的に使用した航空母艦は無傷だった。戦中、アメリカは大西洋と太平洋の双方で軍事作戦を展開した。戦後、ヨーロッパとアジアのライバルの国土が荒廃していたのに引き換え、アメリカ合衆国は国内産業への被害が無く、比類ない強国の地位を確保した。さらにソビエト連邦という成長しつつあった強国との直接競争に向かった。ヨーロッパにおける戦争の後始末で、アメリカ合衆国はマーシャル・プランを成立させ、戦災復興のためにヨーロッパの連合国に130億ドルに上る費用を提供した。1945年以降戦間時代を特徴付けた孤立主義は終わりを告げた。 アメリカ合衆国は、サンフランシスコに50カ国代表を集め、国際連合安全保障理事会の4つの常任理事国の1つになることで、国際連合を設立する推進力になった。国際連合のアイディアは諸国間の理解を通じて世界の平和を推進することだった。多くの方法において、それは独立戦争中の連合規約に基づくアメリカ最初の政府の姿に酷似していた。それは資金を構成員政府に頼り、加盟国内の個人には権限が及ばないこととされた。その結果、各国に貢献を強制する難しさがあった。2009年の国際連合予算50億ドルはGDPに基づく複雑な計算式を使って加盟国に割り当てられている。アメリカ合衆国はそのうちの20%を負担した。しかし、国際連合の描く平和構想は、その後の数十年間に世界中の強国による核開発と核実験によって国際構造のバランスが崩れ、危険に曝されることになった。
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