第二次世界大戦および終結後の艦歴
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「ペトロパブロフスク (戦艦・2代)」の記事における「第二次世界大戦および終結後の艦歴」の解説
第二次世界大戦勃発後、本艦と十月革命号(レヴォリューツィア)はバルト海に配備され、パリスカヤ・コンムナは黒海に配備された。フィンランドとの冬戦争では、1939年(昭和14年)12月19日にコイビスト島ザーレンペー砲台に対する砲撃に参加した。冬戦争時に対空兵装の近代化が行なわれ、また航空兵装は撤去された。 1941年(昭和16年)6月22日の独ソ戦開始時、本艦はニコライ・クズネツォフ提督の判断でタリンからクロンシュタット軍港に後退していた為、タリン撤退に伴う損害を蒙る事から逃れることができた。だがレニングラード包囲戦の進展に伴い、ドイツ空軍 (Luftwaffe) 航空部隊の攻撃に加えて、ドイツ陸軍地上部隊からの砲撃にも晒される。それに反撃して、クロンシュタット軍港の艦艇(マラート、十月革命号)等は艦砲射撃を実施した。重大な脅威となったソ連軍艦を排除するため、ドイツ軍はオスカー・ディノルト(ドイツ語版、英語版)大佐が率いる第2急降下爆撃航空団 (“インメルマン航空団”) を対艦攻撃に投入した。 9月23日、クロンシュタットでドイツ空軍の急降下爆撃機 Ju 87 (Junkers Ju 87 Stuka) による爆撃をうける。1000キロ爆弾2発が命中し、前部弾薬庫が爆発。艦橋、司令塔や2番砲塔前方の艦首部分などが破壊され、着底した。戦死者は艦長以下326名であった。爆弾を命中させたJu87の片方はハンス・ウルリッヒ・ルーデル機であったという。このほか、第2急降下爆撃航空団の急降下爆撃で姉妹艦オクチャブリスカヤ・レヴォリューツィヤ(十月革命号/旧ガングード)、新鋭巡洋艦キーロフ (Киров) も損傷した。 10月31日、砲撃能力のみの応急修理が成功した。その後浮揚され、浮き砲台として使用される。12センチ砲は陸揚げされ、防御用として甲板上に花崗岩が敷き詰められるなどの措置がされた。前部を失ったままで地上部隊への支援砲撃を行うが、船体ダメージよりも燃料不足による出力不足で砲撃できる機会は限られていた。12月12日及び23日、ドイツ軍の203 mm砲弾が3発命中。12月28日、280 mm砲弾2発命中。 1942年(昭和17年)10月25日、305 mm砲弾が3発命中。11月6日、292 mm砲弾が1発命中。年末、マラートの砲兵装、3基の305 mm3連装主砲(ビニマンスキー氏証言では主砲は外されなかった可能性が高い)、3基の34口径76 mm砲、5基の70口径37 mm機関砲、2基のDK機銃、3基のDSHK機銃を取り外し、陸上の戦線に転用した。更に57箇所の区画隔壁間の空所にセメントを流し込み、後部艦橋付近の水平甲板の装甲を強化する。 1943年(昭和18年)大祖国戦争第二期、バルト赤旗艦隊は困難な状況で行動を続けた。主力艦二隻(その内一隻はひどく損傷)。5月31日、マラートは艦名を旧名ペトロパブロフスクに戻す。10月8日、203 mm砲弾が1発命中。 1944年(昭和19年)1月、ソ連軍の全面反攻によりレニングラードの包囲は完全に解かれるが、ペトロパブロフスクの本格的な修理と改装は戦後数年経ってから漸く行われる。戦争中、部品取り用となっていた同型艦「フルンゼ」を利用するなどして戦艦として再建しようとする計画(プロジェクト27)があったが、計画のみに終わった。 1950年(昭和25年)11月28日、艦名をペトロパブロフスクから今度はヴォルホフ川に因んでヴォルホフ (Волхов) と改名される。 1951年(昭和26年)9月25日、砲術練習艦として復帰。 1953年(昭和28年)9月4日除籍。
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