レニングラードの包囲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:57 UTC 版)
「レニングラード包囲戦」の記事における「レニングラードの包囲」の解説
ルガ防衛線を突破したドイツ軍は西からレニングラードに迫るとともに、レニングラードの南方でも東に進んだ後、北に向かい8月30日に交通の要衝のムガ(レニングラードの南東)を陥落させ、9月 8日にはラドガ湖畔のシュリッセルブルクを制圧した。レニングラード防衛の軍事部門の最高司令官はヴォロシーロフ元帥で、7月10日に着任して以来(前任のパヴロフ将軍はモスクワに戻り即座に銃殺された。)、2ヶ月にわたり赤軍を指揮してきたが、ドイツ軍の攻撃の前に退却が続き、シュリッセルブルクの陥落によりレニングラードの包囲の環を閉じられてしまった。レニングラード近郊(南西方向)のクラスノエ・セロの戦いではヴォロシーロフは赤軍海軍歩兵(その黒色の制服と頑強な戦いぶりから、ペストを意味するドイツ語とかけた「黒い死」部隊とドイツ軍から恐れられた。)の突撃の先頭に立ち、レニングラード防衛戦の伝説の1つとなったが、スターリンは「敵に対する消極性」を理由に9月11日に解任し、名将として知られるジューコフ上級大将にレニングラードの立て直しを命じた。
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