レニングラード・フィルの常任指揮者として
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「エフゲニー・ムラヴィンスキー」の記事における「レニングラード・フィルの常任指揮者として」の解説
1938年、ムラヴィンスキーはレニングラード・フィルの常任指揮者に就任。士気が低迷していたオーケストラの立て直しに着手する。 1941年の独ソ戦開戦後、オーケストラとともにシベリアのノヴォシビルスクに疎開したが、その間も慰問演奏などで膨大な回数の指揮を精力的にこなしている。 1946年、プラハの春音楽祭への出演という形で外国公演を始める。このときにチェコ・フィルハーモニー管弦楽団と共演し、録音も残している。これは、ムラヴィンスキーにとって生涯唯一となるロシアのオーケストラ以外との共演であった。 西側にまでその名声が及んだのは1956年にモーツァルト生誕200年祭でウィーンを訪れたのがきっかけであった。以後約25年に渡って約30回もの外国公演を行っている。 1960年に一度だけイギリス公演を行っている。その際にチャイコフスキーの交響曲第4番を録音。まもなくオーストリアへ渡り、ウィーン楽友協会ホールでチャイコフスキーの交響曲第5番と第6番(悲愴)を録音した。また、このとき壇上における威厳のある振る舞いと超絶的パフォーマンス、その長身痩躯の風貌から「ロシアンクレンペラー」の異名を得る。 1938年から1961年にかけては度々スタジオ録音を行っていたが、1961年に行われたショスタコーヴィチ交響曲第12番のスタジオ録音以後は、機会を限ったライブ録音や、演奏会前の通しリハーサルの録音が中心となる。 1962年に一度だけアメリカ公演を行っている。 1973年に初の来日公演を行う。以降1975年、1977年 、1979年と1年おきに来日公演を行う。 1984年4月にショスタコーヴィチ交響曲第12番をライブ録音。第4楽章で振り間違いを起こしており、ムラヴィンスキーはこの件で自身の完璧主義に危機感を覚えたのではないかとされている。以後一切の録音を認めず、この第12番が最後の録音となった。しかし演奏活動からの引退はしなかった。 1987年3月6日のシューベルト未完成交響曲とブラームス交響曲第4番が最後の演奏会となる。この演奏会後もショスタコーヴィチの交響曲のスコアを読み込むなど演奏会への意欲を示していたが、再び舞台に上がることはかなわなかった。 ムラヴィンスキーが常任指揮者在任期間中、レニングラード・フィル以外のオーケストラに客演した例は、上記のチェコ・フィル以外にソビエト国立交響楽団(現ロシア国立交響楽団)等との極稀な共演のみである。
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