レニングラード・フィルの常任指揮者としてとは? わかりやすく解説

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レニングラード・フィルの常任指揮者として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 05:39 UTC 版)

エフゲニー・ムラヴィンスキー」の記事における「レニングラード・フィルの常任指揮者として」の解説

1938年ムラヴィンスキーはレニングラード・フィルの常任指揮者就任士気低迷していたオーケストラ立て直し着手する1941年独ソ戦開戦後オーケストラとともにシベリアノヴォシビルスク疎開したが、その間慰問演奏などで膨大な回数指揮精力的にこなしている。 1946年プラハの春音楽祭への出演という形で外国公演始める。このときにチェコ・フィルハーモニー管弦楽団共演し録音残している。これは、ムラヴィンスキーにとって生涯唯一となるロシアオーケストラ以外との共演であった西側にまでその名声及んだのは1956年モーツァルト生誕200年祭でウィーン訪れたのがきっかけであった以後25年渡って30回もの外国公演行っている。 1960年一度だけイギリス公演行っている。その際チャイコフスキー交響曲第4番録音。まもなくオーストリア渡りウィーン楽友協会ホールチャイコフスキー交響曲第5番第6番悲愴)を録音したまた、このとき壇上における威厳のある振る舞い超絶パフォーマンス、その長身痩躯風貌から「ロシアンクレンペラー」の異名を得る。 1938年から1961年にかけては度々スタジオ録音行っていたが、1961年行われたショスタコーヴィチ交響曲第12番スタジオ録音以後は、機会限ったライブ録音や、演奏会前の通しリハーサル録音中心となる1962年一度だけアメリカ公演行っている。 1973年に初の来日公演を行う。以降1975年1977年1979年1年おきに来日公演を行う。 1984年4月ショスタコーヴィチ交響曲第12番ライブ録音第4楽章振り間違い起こしており、ムラヴィンスキーはこの件で自身完璧主義危機感覚えたではないかとされている。以後一切録音認めず、この第12番最後録音となった。しかし演奏活動からの引退はしなかった。 1987年3月6日シューベルト未完成交響曲ブラームス交響曲第4番最後演奏会となる。この演奏会後もショスタコーヴィチ交響曲スコア読み込むなど演奏会への意欲示していたが、再び舞台上がることはかなわなかった。 ムラヴィンスキー常任指揮者在任期間中、レニングラード・フィル以外のオーケストラ客演した例は、上記のチェコ・フィル以外にソビエト国立交響楽団(現ロシア国立交響楽団)等との稀な共演のみである。

※この「レニングラード・フィルの常任指揮者として」の解説は、「エフゲニー・ムラヴィンスキー」の解説の一部です。
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