第二次世界大戦から冷戦、民主化
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「ブルガリアの歴史」の記事における「第二次世界大戦から冷戦、民主化」の解説
第二次世界大戦では枢軸国側につくこととなった。1941年3月1日、ブルガリアが三国同盟に加盟した当日から、ナチス・ドイツによるブルガリアへの進駐が始まった。同年4月6日、ドイツがギリシアとユーゴスラビアに攻撃を開始。ブルガリアに駐留していたドイツ軍部隊22個師団も半々づつギリシアとユーゴスラビアに進軍した。ユーゴスラビアとギリシアが枢軸側に降伏すると、ユーゴスラビア南東部とギリシア東部はブルガリアが占領統治を行った。ブルガリアはソ連に対し宣戦布告を行っていなかったが、1944年9月5日にはソ連軍がブルガリアに宣戦布告し、領内への進入を開始した。9月9日にはクーデターにより、政権交代が行われ、対ドイツ戦を開始することとなった。 1946年には祖国統一政府により、国民投票の結果王政が廃止され、ブルガリア共産党による一党独裁制の社会主義国・ブルガリア人民共和国となり、初代首相にはコミンテルン書記長などを歴任したゲオルギ・ディミトロフが就任した。オスマン帝国からロシアに解放されたこともあり、冷戦の時は親ソ連の体制をとりソ連16番目の共和国と呼ばれる。 ゴルバチョフが登場しペレストロイカが展開され、社会主義陣営に動揺が生じ、1989年にベルリンの壁崩壊に象徴される東欧民主化の運動はブルガリアにも波及した。1989年11月10日には、他の党幹部達からの要求に屈する形でトドル・ジフコフ共産党書記長は辞任。これを受けて非共産主義勢力の活動が活発となり市民団体が組織された。そして11月18日には環境保護と情報公開を求める市民団体が首都ソフィアのアレクサンデル・ネフスキー広場で集会を開催。5万人を越す民衆で広場は埋め尽くされた。集会では35年間にわたるジフコフ政権への不満と批判が噴出、さらに共産党一党独裁の放棄、複数政党制の導入、言論出版の自由、集会の自由、自由選挙の実施が叫ばれ、参加者も拍手でそれに呼応した。翌月には反体制同盟「民主勢力同盟」が発足し、共産党独裁体制は崩壊した。1990年には国名を「ブルガリア人民共和国」から「ブルガリア共和国」に改称、共産党はブルガリア社会党に改名した。1992年には、民主勢力同盟のジェリュ・ジェレフ大統領が再任された。
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