第二次世界大戦から戦後の混乱期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 03:23 UTC 版)
「比治山陸軍墓地」の記事における「第二次世界大戦から戦後の混乱期」の解説
1941年(昭和16年)に合葬方式へ変更する陸軍省達が発令。目的は、高射砲陣地の設置のためとされ、忠魂碑1基を建てるとした。1944年(昭和19年)から工事に入り、墓石は撤去の上で壕に埋設。遺骨は仮納骨堂に納められた。しかし、1945年8月の終戦により工事は中断。同年9月の枕崎台風や同年10月の大雨で墓石や遺骨は流された。 元々墓地があった地には、ABCC(現・放射線影響研究所)が建てられた。中国新聞に1955年に掲載された、広島市長を務めたことがある浜井信三のインタビューでは、アメリカ軍側が水害被害を恐れて高台へのABCC移転を求め、国立公園化の予定があった宇品は外され、二葉山などは受け入れられず、比治山に落ち着いた記述がある。占領下のため、GHQのある程度の圧力はあったが、理由付きで反対理由を説明、市議会に伺うように求めた。御便殿や陸軍墓地があり市民感情を考慮するように求め、極力高層でない建物を建設するように求めた。また、当時敷地内に残されていた、仮納骨堂、忠魂墓碑、わずかに残された墓石についてはABCCの費用で移転が行われ、仮納骨堂については石碑を造り(忠魂墓碑の移設を差す可能性もある)その中に移転。忠魂墓碑は現在地に移転。丁重な祭典を行った上で、遺骨の移転。墓石については地下深くに埋めた記述がある。忠魂墓碑については、旧墓地の忠魂碑の碑文を削った上で移設された。また、復興に尽力したI女史の証言で、当時の市民が土まんじゅうの下に遺骨が埋まっていることを知らず、土まんじゅうの上で花見をしたりしていた。それらの実情を市役所に訴えても相手にされず、そのことが、I女史など有志により自ら墓地の再建活動を行うことになった。
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