第二次世界大戦から自治体建設まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/10 04:14 UTC 版)
「ミンデン (ノルトライン=ヴェストファーレン)」の記事における「第二次世界大戦から自治体建設まで」の解説
第二次世界大戦中、ミンデン郊外のヴェーザー山地やヴィーデン山地に U-Verlagerung と呼ばれる地下工場が造られた。ここではノイエンガンメ強制収容所の収容者達が武器やその他の軍需品製造の強制労働に服していた。戦後、工場の機械はアメリカ軍によって解体され、工場への立ち入りは禁止された。 ミンデン水運路ジャンクションに近いヴィンケルトゥルム掩蔽壕には国立造船所やミンデン水門の職員がいた。この掩蔽壕は封鎖され、2010年に取り壊された。ユダヤ人市民は大部分が国外追放とされ、拘束されていた。犠牲となったユダヤ人を偲ぶシュトルパーシュタイネ・プロジェクトが実行されている。 第二次世界大戦中の爆撃によりミンデンは甚大な被害を受けた。中心街やヴェーザー川を越える運河施設が破壊された。1945年4月3日アメリカ軍がバート・エーンハウゼン方面から侵攻してきた。4月4日、カナダ第1空挺大隊が西から市内に侵入し、0時にマルクト広場に達した。4月5日2:30頃、この街は完全に制圧された。1945年4月9日には早くも暫定的な市行政機構が機能し始めた。 ミンデンは、イギリス管理地域の一部となった。1946年3月11日、この街にイギリス軍政府によるイギリス管理地区経済局が設置され、これがバイゾーンの経済局の前身となった。 第二次世界大戦後、ミンデンは、かつての地域を越えて影響力を発揮するような行政上の重要地点としての地位を完全に喪失した。行政管区の本部所在地は1947年にデトモルトに移された。いくつかの官庁の本庁所在地も、これに伴って移動した。旧ミンデン行政管区を管轄する行政裁判所は現在もミンデンにある。 戦後復興は一歩一歩進められた。1949年にヴェーザー川を跨ぐミッテル運河の運河橋が再開通し、1955年に新市庁舎が開館、1957年にはミンデン聖堂が再建された。市庁舎と聖堂の再建は建築家ヴェルナー・マルヒが担当した。1968年、ドイツ鉄道はミンデン駅の電化業務を開始した。1969年、ヴェーザー川に架かるバイパス橋の建設が始まった。市北部ではミンデナー・リング(ミンデン環状道路)の延伸部にあたる北橋が建設され、南部では計画中だったアウトバーンの一部である南橋の工事が始まった。この道路は延伸されてヴィーエン山地をトンネルで抜けて、バート・エーンハウゼンでアウトバーンA30号線に接続する計画であったが、市民主導の反対運動によりこの計画は廃案となった。 1970年代になると旧市街の近代化がなされるようになった。これにより、ヴェーザートーア周辺地区は整理され、古い細々とした家屋は広い床面積を持つ建物に建て替えられた。こうして造られたのが、たとえばC&Aやカルシュタット(現 ヘルティー)の倉庫であった。公共交通も新たに整理された。インネンシュタットは自由交通地区と歩行者専用地区に交通の分離がなされた。4車線のバイパス道路を通った来た自動車は、インネンシュタットの周辺部やカンツェル・ヴァイデにある駐車場を利用する。路線バスの中央停留所は市内中心部から南部に移された。これにより空いたスペースに市役所の新庁舎を建設する計画が立てられた。これにより市役所のアーケードからミンデン聖堂西面への視界は新しい建物によって遮られることとなった。こうした都市整備はミンデンの古い木組み建築の一部を破壊することとなり、後に近代化の失敗事例としてしばしば採り上げられることとなった。
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