第二次世界大戦から冷戦期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 06:35 UTC 版)
「アンドレア・ドーリア (戦艦・2代)」の記事における「第二次世界大戦から冷戦期」の解説
1940年(昭和15年)6月10日、イタリア王国は第二次世界大戦に枢軸陣営として参戦、地中海戦線が形成された(地中海攻防戦)。カブール級2隻(カブール、チェーザレ)は開戦に間に合ったが、本級の就役は遅れた。「アンドレア・ドーリア」の改装は同年10月に完了し、10月26日にタラントで第5戦隊 (V Divisione Corazzate) に編入された。「アンドレア・ドーリア」は11月11日から12日の夜のMB8作戦にともなうタラント空襲では損害は受けず、12日にナポリへ移された。 12月初め、イタリア海軍は艦隊の再編を行ったが、「アンドレア・ドーリア」は戦艦「ジュリオ・チェザーレ」とともに第5戦隊に留まった。1941年(昭和16年)1月初め、「アンドレア・ドーリア」は戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」とともにイギリス軍のMC4作戦(エクセス作戦)に対して出撃したが、イギリス軍部隊を捕捉できず1月11日に帰投した。 2月9日、「アンドレア・ドーリア」などからなるイタリア艦隊はジェノヴァ砲撃を敢行したイギリス艦隊(H部隊)を捕捉しようとしたものの、誤情報に振り回されるなどしたため捕捉に失敗した。ラスター作戦にともなって生起した3月下旬のマタパン岬沖海戦に、本艦は参加していない。タラント空襲とマタパン岬沖海戦でリットリオ級戦艦2隻が大破してしまったので、イタリア改装戦艦の行動も慎重にならざるを得なくなった。またイタリアの燃料不足も、イタリア戦艦の行動に影響を与えはじめた。 イタリア艦隊は地中海の要所マルタ島へむかうマルタ輸送船団の撃滅を企図して何度か出撃したが、不首尾におわった。1941年後半になると、イギリス地中海艦隊やH部隊の主力艦が相次いで被害を受ける。同時に、北アフリカ戦線にむかう枢軸陣営輸送船団が連合国の小規模水上艦部隊(K部隊など)に襲撃されて大損害を受ける事例が生じ、イタリア海軍の巡洋艦や戦艦も船団護衛任務に投入された。同年12月、「アンドレア・ドーリア」はイタリアからリビアのベンガジへの大規模船団の護衛作戦(M41作戦)に参加した。次いでM42作戦に参加し、その際に第1次シルテ湾海戦が発生した。1942年(昭和17年)1月にもリビアへの船団護衛作戦(M43作戦)に参加したが、作戦中に機械的な問題が発生し港に引き返した。以後、燃料不足のため、イタリア戦艦の行動が制限される。1943年(昭和18年)9月8日にイタリアが連合国に降伏するまで活動は乏しかった。 バドリオ伊国首相より休戦宣言が発表されると、イタリア海軍艦艇群のうち、本艦を含めたグループは英領マルタのバレッタ港に入港した。1944年(昭和19年)6月8日までそこで抑留された。「アンドレア・ドーリア」は1945年(昭和20年)3月14日にタラントに戻った。 同年5月に「アンドレア・ドーリア」はシラクサへ移動し、1949年(昭和24年)12月13日までそこにとどまった。それから1950年(昭和25年)12月9日までと1951年(昭和26年)3月9日から1953年(昭和28年)5月までイタリア艦隊の旗艦をつとめた。他のイタリア戦艦が除籍されたり戦利艦として引き渡される中で、アンドレア・ドリア級戦艦2隻はイタリアにとどまった。その後は砲術練習艦となり、1956年(昭和31年)9月16日に退役。11月1日に除籍され、ラ・スペツィアで解体された。
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