第二次世界大戦 – Z2、Z3、Z4
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 06:35 UTC 版)
「コンラート・ツーゼ」の記事における「第二次世界大戦 – Z2、Z3、Z4」の解説
ツーゼは当時の他の計算機科学者や数学者とは全く独立にコンピュータを開発していた。1936年から1945年まで、第二次世界大戦によってほぼ完全な知的隔離状態だった。1937年、友人のヘルムート・シュライヤー(英語版)はツーゼにスイッチング部品として真空管を使うことを助言している。当時ツーゼはそれを「ばかげた考え (schnapsidee)」だと思っていた。シュライヤーは1938年にはZ3のプロトタイプ製作を助けている。 1939年兵役につき、そこで物資を与えられ、最終的にZ2を完成させた。Z2は、電話用リレーを使ってZ1を改良したバージョンである。1941年、自身のマシンを製造する企業 Zuse Apparatebau(ツーゼ装置エンジニアリング)を創業。 Z2を基本として改良を施し、1941年にはZ3を完成させる。Z3 は二進法による22ビット長浮動小数点数計算機であり、ループを使ったプログラムを組むことができた。ただし条件分岐はできない。メモリと計算装置は電話機用のリレーを使っている。条件分岐は命令として用意されていないが、チューリング完全性は1998年に証明されている。ただし、プログラムを供給するテープをループ状にするという屁理屈のような証明であり、実用的なチューリング完全ではない(詳細はZuse_Z3#計算可能性を参照)。実用化に重きを置いていたツーゼ自身はZ3がチューリング完全であると考えたわけではない。 なお、プログラム不可能だが世界初の電子式コンピュータとしては、1939年から1941年にかけてアイオワ州立大学で開発されたアタナソフ&ベリー・コンピュータがある。 Z3の開発資金は、自動計算能力を必要としていたドイツ政府系のドイツ航空機研究所 (DVL) が一部を提供している。シュライヤーはZ3の後継機として電子式計算機の開発を政府に提案したが、「戦略的に重要でない」として却下された。 ツーゼの会社はZ1、Z2、Z3と共に1945年の連合国による空襲で破壊された。1942年から製作中だった Z4 は事前に安全な場所に移されていたため難を逃れた。戦後は物資不足でZ4の製作が続けられず、再開できたのは1949年のことである。1949年11月8日、Zuse KG を創業。チューリッヒ工科大学の数学者、エドゥアルト・シュティーフェル はZ4を見学し、1950年に1台注文した。Z4は1950年7月12日にチューリッヒ工科大学に納入され、非常に信頼性が高いことを証明した。 ツーゼはナチ党の党員になったことはないが、ナチのために働くことに何の疑問も良心の呵責も感じていない。戦後しばらくたって、優秀な科学者や技術者は、多少問題のあるビジネスや軍と悪魔的取引をしてでも仕事をするか、それとも全く何もしないか、選ぶ必要に迫られるものだと述べている。
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