小早川朝平
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/30 15:07 UTC 版)
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時代 | 鎌倉時代後期 - 南北朝時代 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 貞和3年/正平2年12月1日(1348年1月2日)[1] |
別名 | 太郎(通称)[1]、左衛門尉[1]、美作民部丞[1]、美作民部太夫[注釈 1] |
戒名 | 円通院観嶺禅公[1] |
幕府 | 鎌倉幕府→室町幕府 |
氏族 | 沼田小早川氏 |
父母 | 父:小早川雅平[1] |
兄弟 | 朝平、覚證尼 |
子 | 小早川宣平[1]、小早川宮熊丸[1] |
小早川 朝平(こばやかわ ともひら)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。鎌倉幕府の有力御家人。沼田小早川氏の当主。
生涯
父・雅平より沼田小早川氏の家督を相続。朝平は鎌倉幕府の命令に従い、瀬戸内海の海賊衆取り締まりに積極的に貢献したようで、正和3年(1314年)、海賊・右衛門五郎、雅楽左衛門次郎を捕らえ 、元応元年(1319年)には伊予国の海賊・弥五郎家秀を捕えている。
元弘3年/正慶2年(1333年)、元弘の乱に際して孫の貞平を京都へ派遣するが、幕府方は敗北する。貞平は東国へ落ち延びていく六波羅探題の一族郎党400人余りが、近江国番場蓮華寺で自刃する現場までつき従うが、その場を脱出し本領・安芸国沼田荘まで逃げ帰っている。これが原因となり、一時期、建武政権に所領を没収され、沼田小早川氏は窮地に立たされることとなる。しかし、早くから足利高氏の下で戦っていた分家の竹原小早川氏 ・景宗のとりなしなどにより赦免され、南北朝時代以降、足利氏に仕えることとなった。
脚注
参考文献
- 今井尭ほか編 『日本史総覧』3(中世 2)、児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。全国書誌番号:84023599。ISBN 4404012403。NCID BN00172373。OCLC 11260668。ASIN B000J78OVQ。
関連史料
- 東京帝国大学文学部史料編纂所編 『大日本古文書』家わけ十一ノ二:小早川家文書之1-2、東京帝国大学、1927年。全国書誌番号:73018529。NCID BN04860811。OCLC 834195954。
NDLJP:1908801
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