近年の研究による合戦の発端
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/25 01:27 UTC 版)
「吉田郡山城の戦い」の記事における「近年の研究による合戦の発端」の解説
上記のように、これまでの吉田郡山城の戦いは毛利征伐を目的とした尼子軍の侵攻として描かれてきたが、現在では尼子氏の狙いは頭崎城などだったと考えられている。 安芸高屋保(現・東広島市)にある頭崎城には、尼子方の平賀興貞が入っており、安芸東西条を拠点としていた大内に対する最前線であった。だが、当時の大内軍主力は九州北部で少弐氏と戦っており、一方の尼子氏も備中国・美作国方面に兵を送っていた。そのため、頭崎城攻めは、大内家臣の弘中隆包と大内方安芸国人の毛利元就・平賀弘保・竹原小早川氏の小早川興景らを中心に行われた。 戦いは天文5年(1536年)頃より始まるが、当初は尼子方(平賀興貞の他、安芸武田氏・吉川氏・沼田小早川氏など)が優勢であった。苦戦を強いられた大内軍は、天文7年(1538年)には、弘中隆包に代わって杉隆宣(隆相の父)を西条に入れ、さらには内藤隆時(隆春の弟)も頭崎城攻めに加えて対抗した。 天文9年(1540年)1月、ついに大内氏当主・大内義隆が動いた。義隆が周防防府に陣を構えて安芸での戦いを指揮すると、4月には沼田小早川氏が大内方に寝返る。そして6月には、9日に安芸武田氏の当主・武田光和が急死し、16日の戦いで平賀興貞勢が毛利元就・平賀弘保の軍勢に敗れるなど、頭崎城どころか安芸武田氏の佐東銀山城までも窮地に追い込まれた。光和の跡目として若狭武田氏から武田信実を養子に迎えたが、家中の内紛を押さえることができずに佐東銀山城から逃亡。尼子氏へ毛利討伐を要請した。
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