大内義隆の対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 15:08 UTC 版)
隆房謀反の動きについては、早々より杉重矩や冷泉らにより義隆に注進があり、隆房討伐すら提案されていた。しかし、義隆は隆房への疑いを信じようとせず、無策に過ごしていたとされる。一方で、既に義隆には隆房に対抗する力もなかったと言える。義隆は周防長門を始め7ヶ国の守護であったが、各地の統治を守護代に委ねており、守護代は大きな力を持っていた。その上、政務への関心を失った義隆がますます守護代に軍事を一任したため、彼らと任地における国人の癒着は強まっており、軍事力を増強させている。そのため、周防守護代陶氏の力は大内氏を陵駕しており、対抗力は失われていたとされる。義隆が元就に送った書状に「家中が錯乱した際には、合力することを申し遣わす」とあり、謀反直前の天文20年(1551年)正月に、謀反に備えて毛利の来援を求めたものとされていたが、近年の研究では天文5~6年(1536〜1537年)頃の書状であり大寧寺の変とは無関係とする説(毛利家臣団で反抗的な井上一族の誅殺を考え始めた元就が、義隆に承諾を求めた件での返書)もある。
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