九州の騒乱と立花道雪との対立とは? わかりやすく解説

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九州の騒乱と立花道雪との対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 14:42 UTC 版)

宗像氏貞」の記事における「九州の騒乱と立花道雪との対立」の解説

1557年、鍋寿丸元服し宗像氏貞名乗る翌年には連緒とも戦う。この頃大内氏滅亡により宗像郡にあった大内氏所領西郷庄の代官河津隆家が氏貞に帰属決め河津隆家を中心とした西郷党を支配下に置く。そして大内氏北九州所領引き継いだ大友氏に従うこととなる。しかし、毛利氏北九州侵攻すると、秋月氏とともに大友氏離反1559年9月25日宗像の地を大友氏支援得た宗像鎮氏が襲撃、氏貞は宗像捨て逃亡するが、毛利氏支援得て1560年3月27日所領奪回し4月18日、そして8月16日19日翌年3月15日まで、許斐山城、赤間表、長者原白山城蔦ヶ嶽城吉原里城に数度大友立花鑑載・怒留湯融泉・吉弘鑑理高橋鑑種臼杵鑑速立花道雪らの攻勢防いだその後毛利氏大友氏講和が成ると、氏貞も大友氏講和する1567年高橋鑑種大友宗麟叛旗翻すと、氏貞も同調し秋月種実筑紫惟門大友一族立花鑑載同調する。これにより筑前豊前大混乱となり、大友氏毛利氏立花山城攻防戦等、北九州各地干戈を交えた。1569年北九州より毛利氏撤退すると、大友氏降伏講和条件として大友氏重臣臼杵鑑速の娘を宗麟の養女として、1570年に妻とした。もう一つ条件として家臣河津隆家の殺害があり、氏貞はやむなく隆家を殺害した殺害したものの、これを深く悔やんだ氏貞は隆家の子供達を取り立てて一門同様の扱いとした。戸次鑑連立花道雪)が立花氏家督継ぎ立花山城となるとその関係に氏貞は心を砕いた自身の妹を人質として側室差し出したのも、苦心表れであろう1581年秋月種実大友領への侵攻開始一部宗像家臣立花勢の兵糧強奪し、道激怒。氏貞は謝罪努めるも道は軍を出し宗像氏への攻撃開始した一度立花勢を撃退するも、最終的に守りきれず、宗像捨てて逃亡1584年には、側室人質として立花道雪元にいた氏貞の妹・色姫が、氏貞と道対立心を痛めて自害している。1585年立花道雪病死すると、すぐさま反撃開始し旧領回復した。翌1586年豊臣秀吉九州征伐前に急死した。 氏貞の子塩寿丸亡くなり氏貞の未亡人去った為、家督事実上大宮司職(大宮司職に次ぐ職)の一族深田氏栄が後を継ぐことになった。なお、翌年秀吉九州征伐によって、宗像大社大宮司権限は、祭礼のみに限定されることとなった

※この「九州の騒乱と立花道雪との対立」の解説は、「宗像氏貞」の解説の一部です。
「九州の騒乱と立花道雪との対立」を含む「宗像氏貞」の記事については、「宗像氏貞」の概要を参照ください。

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