九州の騒乱と立花道雪との対立
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「宗像氏貞」の記事における「九州の騒乱と立花道雪との対立」の解説
1557年、鍋寿丸は元服し宗像氏貞と名乗る。翌年には杉連緒とも戦う。この頃大内氏滅亡により宗像郡内にあった大内氏所領・西郷庄の代官河津隆家が氏貞に帰属を決め、河津隆家を中心とした西郷党を支配下に置く。そして大内氏の北九州所領を引き継いだ大友氏に従うこととなる。しかし、毛利氏が北九州に侵攻すると、秋月氏らとともに大友氏を離反。1559年9月25日、宗像の地を大友氏の支援を得た宗像鎮氏が襲撃、氏貞は宗像を捨て逃亡するが、毛利氏の支援を得て、1560年3月27日に所領を奪回し、4月18日、そして8月16日~19日、翌年の3月15日まで、許斐山城、赤間表、長者原、白山城、蔦ヶ嶽城、吉原里城に数度大友軍立花鑑載・怒留湯融泉・吉弘鑑理・高橋鑑種・臼杵鑑速・立花道雪らの攻勢を防いだ。その後毛利氏と大友氏の講和が成ると、氏貞も大友氏と講和する。 1567年、高橋鑑種が大友宗麟に叛旗を翻すと、氏貞も同調し、秋月種実、筑紫惟門、大友一族の立花鑑載も同調する。これにより筑前・豊前は大混乱となり、大友氏と毛利氏は立花山城攻防戦等、北九州各地で干戈を交えた。1569年、北九州より毛利氏が撤退すると、大友氏に降伏。講和条件として大友氏の重臣臼杵鑑速の娘を宗麟の養女として、1570年に妻とした。もう一つの条件として家臣の河津隆家の殺害があり、氏貞はやむなく隆家を殺害した。殺害したものの、これを深く悔やんだ氏貞は隆家の子供達を取り立てて、一門同様の扱いとした。戸次鑑連(立花道雪)が立花氏の家督を継ぎ、立花山城主となるとその関係に氏貞は心を砕いた。自身の妹を人質として側室に差し出したのも、苦心の表れであろう。 1581年、秋月種実が大友領への侵攻を開始。一部の宗像家臣が立花勢の兵糧を強奪し、道雪は激怒。氏貞は謝罪に努めるも道雪は軍を出し、宗像氏への攻撃を開始した。一度は立花勢を撃退するも、最終的には守りきれず、宗像を捨てて逃亡。1584年には、側室兼人質として立花道雪の元にいた氏貞の妹・色姫が、氏貞と道雪の対立に心を痛めて自害している。1585年に立花道雪が病死すると、すぐさま反撃を開始し旧領を回復した。翌1586年、豊臣秀吉の九州征伐前に急死した。 氏貞の子の塩寿丸が亡くなり氏貞の未亡人も去った為、家督は事実上擬大宮司職(大宮司職に次ぐ職)の一族の深田氏栄が後を継ぐことになった。なお、翌年の秀吉の九州征伐によって、宗像大社の大宮司の権限は、祭礼のみに限定されることとなった。
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