宗像大宮司・宗像氏
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「宗像大社神主の一覧」も参照 「宗像大宮司の一覧」も参照 天照大神と素戔嗚尊の誓約によって生まれた宗像三神を祭神とする全国宗像神社の総本社・宗像大社の大宮司家を中核とする。 海路の重要性が増すとともに宗像大社は国の祭祀の対象となる。清氏親王より前代は、宗形徳善や宗形鳥麿が歴史書に登場する。徳善の娘尼子娘は天武天皇の妃となり高市皇子を生み国母となるなど、大和朝廷中枢と親密な関係にあったと見られる。また大和の宗像神社 (桜井市)は、その頃、宗像大社本貫から分祀されたものと見られる。この時代は宗像大社の神主職を宗形氏大領が独占していた。(祭政一致) 宗像氏の出自は大国主神の六世孫、あるいは三女神の七世孫の吾田片隅命に始まると伝わるが、上古の系図は現在まで確認されておらず、吾田片隅命から徳善までの歴代は不明である。また正三位中納言清氏親王を祖とするが、伝承の域を出ない。914年までは、胸形氏、宗形氏、胸肩氏等と表記された。また、平安時代末期辺りから武士化し、戦国大名としても活躍した。戦国時代に宗像氏貞の急死により大宮司家が断絶した。 氏貞には3人の娘がいたが、そのうちの一人が小早川隆景の重臣草刈重継に嫁ぎ、宗像氏の相伝文書は草刈家に伝来することになった。他、熊本藩主細川家の家臣に宗像家があり、近年宗像大宮司家に関する書状などが後裔の俳人、宗像夕野火の宅から発見されている。 また、「むなかた」の由来は、沼沢地に接する集落、「みなかた」から変異したとするとする説もある。(福岡県宗像市の地名の由来説)
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