宗像大社沖津宮
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社殿(三宮の社殿では一番小さく、屋根が巨岩にめり込むように建てられている。) 禊場、沖津宮社務所など
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宗像大社沖津宮
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島の南西部、標高75~85メートル付近で巨石群(磐座)が密集する場所に鎮座する。石積み基壇上に木造銅板葺き屋根の神明造社殿が建つ。沖ノ島に社殿が建立された最も古い確実な記録は17世紀半ばで、それ以前の社殿の存在については分かっていない。古代以来、長らく自然崇拝の形式(古神道)を保っていた可能性がある。幕末の1851年(嘉永4年)には福岡藩藩士の平野国臣らが沖津宮の社殿普請のため宗像大島に滞在している。何回かの改築・修復で1932年(昭和7年)にほぼ現在の形になった。「宗像神社境内」として文化財保護法により国の史跡に指定されている。 宗像三宮(沖津宮及び中津宮、辺津宮)は、記紀に於いて御神名と鎮座地が明確に記述された最も古い社(創祀)であり、古事記には神代上巻、『故其先生神、多紀理毘売命胸形奥津宮坐、次市寸島比売命胸形中津宮坐、次田寸津比売命胸形辺津宮坐、此三柱神胸形君等以三前大神也』とあり。これは大和国大神神社の三諸山伝承の記述より先に出てきている。 日本書紀では第六段、アマテラスとスサノオの誓約で初出、天孫降臨より以前のアマテラスの神勅により、海北道中に降臨し天孫を助け天孫にいつかれよと玄界灘の島々に鎮座された。 前述の通り古事記には「胸形之奥津宮」とあり宗像大社の奥宮とするのは長年の旧慣であるが、近代的土地登記制度上では社寺等に無償で貸し付けてある国有財産の処分に関する法律(国有境内地処分法)により1952年(昭和27年)に宗像大社の所有地(神領)となったもので、それ以前は大蔵省所管名義であった。地籍登記上の住所は、福岡県宗像市大島沖ノ島2988番。 島に常駐する神職が寝泊りする社務所は御前浜(沖ノ島漁港)と呼ばれる港に設けられており、真水の湧水があり、太陽光発電装置や船舶無線などが完備されている。以前は浜より上段の高台に社務所があり、小さな畑が作られ耕作も行われていた。神職は毎朝、神饌を供える「日供祭」を日課としている。 2018年(平成30年)2月より社殿の修繕が行われ、10月に落慶した。 沖津宮の護符 沖津宮の絵馬 沖ノ島クルーズで配布された沖津宮の御朱印
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