家相の原点
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/14 23:57 UTC 版)
宮城を造営する際、君主が世界を支配するために天(神)と繋がる中心点が重要であるとして太極殿を建てた。当時を模して建てたものの代表的なものに、平安神宮外拝殿がある。太極(中心点)が、万物の根源、陰陽の根源とつながるものと考えられ、万物には当然のごとく神が宿ることから、そこに建てる重要な柱を太極柱と呼ぶことになる。地方によっては、大国主の神をお祀りすることから大黒柱ともいい、太い柱を大黒柱と一概にいうわけではない。 伊勢神宮正殿に見られる心御柱(しんのみはしら)も、日本の神が、木や柱を依り代(よりしろ)とするため、神が依り憑く神籬 (ひもろぎ)としている。 そういった中心点を大切にし、そのうえで統制者は、京城内を結界(聖と俗を分離)し、人々が暮らす京城内に災い事が起きないよう四角四境の祭祀を行った。代表的なものに、京城四隅疫神祭(都)、宮城四隅疫神祭(内裏)があり、鬼門、裏鬼門を恐れるのでなく、四方を平等に崇めていた。 歴代天皇は、正月元旦、早朝から四方を拝され、年災消滅、五穀豊穣を祈る四方拝といわれる祭祀を行い、それは寛平二年(890)から、平成期の明仁天皇まで1100年以上も続いている。北東の鬼門、南西の裏鬼門(人門、病門)、対角である北西(天門)、東南(風門、地門)を、現在でも四方を囲み結界をつくり、その土地に災いが起きぬよう祭礼を行う地鎮祭は簡略されたものである。 もうひとつの家相の原点として、高貴な建物を建てる棟梁を「番匠」(ばんしょう)といい、建築すべてに携わるものに災いが起きぬよう邪気を祓い去る陰陽道の祭祀祭礼の儀法を持ち合わせていた。その儀式を「番匠棟上槌打」といい、戦国時代、陰陽師が迫害を受けても刀鍛冶と同様、高い地位に位置付けられた「番匠」が口述伝承し、のちに書物化した「木割書」(きわりしょ)から、家相は生み出されたものであると、名工大名誉教授、内藤昌は述べている。しかし、その番匠ですら様々な流派で混乱し、ばらばらであった。この儀式を保存するため、昭和43年、番匠保存会が設立され、2014年、300年ぶりに再建される興福寺で、この儀式が披露された。
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