家督決定とは? わかりやすく解説

家督決定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 22:03 UTC 版)

細川忠利」の記事における「家督決定」の解説

忠利の元服決まった直後慶長5年9月15日関ヶ原の戦い勃発する細川家大い活躍し論功行賞結果丹後18万石から豊前小倉39万石大大名へと成長する。 その直後慶長5年12月ごろに忠興嫡子細川忠隆廃嫡した。正室千世との離婚問題原因である。一般的には忠興正室である玉の死の直前千世逃げたことについて忠隆が正室をかばい、忠興心象著しく害したのが理由伝えられていた。しかし近年では違う説が唱えられている。慶長4年1599年)に発覚した徳川家康暗殺計画」において黒幕とされた前田利長千世同母兄妹であり、そのこと関連して細川家嫌疑かかった。しかし、千世を忠隆は離縁しなかった。この一件から忠隆の政治的能力不安視する声があがり、忠興廃嫡せざるをえなかったのだという。忠隆は出家して千世とともに祖父・幽斎の暮らす京都移った。 忠隆が廃嫡されたあとの数年は、細川家家督次男・興秋が継ぐのか三男・忠利が継ぐのか曖昧なままであった。興秋は関ヶ原の戦いに父や兄とともに従軍して武功立て小倉城となっていたが、徳川家康秀忠父子側近くで仕え徳川幕府やその重臣とのパイプ持っていたのは忠利の方であった慶長9年1604年)夏頃、忠興突如病に倒れる。忠興危篤の報がもたらされるなか、将軍家康やその嗣子秀忠は忠利を後継者にするよう忠興すすめた。病から回復した忠興は興秋を忠利の代わりに江戸へ人質として送りその道中で興秋は、やはり出家して祖父・幽斎のもとへ出奔してしまう。 こうして、忠興の手元に残った唯一の正室腹の男子である忠利は細川家家督内定した慶長14年1609年)、彼は小笠原秀政の娘で家康孫娘を母に持つ千代姫正室迎えた。この縁組将軍となっていた秀忠主導したものであり、千代姫この際秀忠養女となっている。

※この「家督決定」の解説は、「細川忠利」の解説の一部です。
「家督決定」を含む「細川忠利」の記事については、「細川忠利」の概要を参照ください。

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