家督決定
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忠利の元服が決まった直後、慶長5年9月15日に関ヶ原の戦いが勃発する。細川家は大いに活躍し、論功行賞の結果、丹後18万石から豊前小倉39万石の大大名へと成長する。 その直後、慶長5年12月ごろに忠興は嫡子の細川忠隆を廃嫡した。正室千世との離婚問題が原因である。一般的には、忠興の正室である玉の死の直前に千世が逃げたことについて忠隆が正室をかばい、忠興の心象を著しく害したのが理由と伝えられていた。しかし近年では違う説が唱えられている。慶長4年(1599年)に発覚した「徳川家康暗殺計画」において黒幕とされた前田利長が千世と同母兄妹であり、そのことに関連して細川家に嫌疑がかかった。しかし、千世を忠隆は離縁しなかった。この一件から忠隆の政治的能力を不安視する声があがり、忠興は廃嫡せざるをえなかったのだという。忠隆は出家して千世とともに祖父・幽斎の暮らす京都へ移った。 忠隆が廃嫡されたあとの数年は、細川家の家督は次男・興秋が継ぐのか三男・忠利が継ぐのか曖昧なままであった。興秋は関ヶ原の戦いに父や兄とともに従軍して武功を立て、小倉城代となっていたが、徳川家康・秀忠父子の側近くで仕え、徳川幕府やその重臣とのパイプを持っていたのは忠利の方であった。 慶長9年(1604年)夏頃、忠興が突如病に倒れる。忠興危篤の報がもたらされるなか、将軍家康やその嗣子秀忠は忠利を後継者にするよう忠興にすすめた。病から回復した忠興は興秋を忠利の代わりに江戸へ人質として送り、その道中で興秋は、やはり出家して祖父・幽斎のもとへ出奔してしまう。 こうして、忠興の手元に残った唯一の正室腹の男子である忠利は細川家家督に内定した。 慶長14年(1609年)、彼は小笠原秀政の娘で家康の孫娘を母に持つ千代姫を正室に迎えた。この縁組は将軍となっていた秀忠が主導したものであり、千代姫はこの際、秀忠の養女となっている。
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