家督相続と三郡掌握とは? わかりやすく解説

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家督相続と三郡掌握

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 03:58 UTC 版)

大宝寺義氏」の記事における「家督相続と三郡掌握」の解説

天文20年1551年)、大宝寺義増長男として誕生する往時室町幕府より出羽守左京大夫拝命するなど出羽国において大い権勢揮った大宝寺氏であったが、この頃大宝寺氏は澄氏の代から続く庶流砂越氏との内紛によって居城焼失するなどし、仙北小野寺氏地理・伝統的に繋がりのあった越後本庄氏上杉氏通じることで命脈を保つほどにまで落ち込んでいた。 永禄11年1568年)、本庄繁長甲斐国武田信玄誘いによって上杉氏に叛いた際、父・義増も盟友として本庄氏加担する。しかし、上杉氏に軍を差し向けられ降伏臣従し、和睦条件として義氏は春日山城人質として送られた。永禄12年1569年)、父の隠居により藤島城主・土佐林禅棟後見を受け、尾浦帰参家督相続する土佐林氏は、出羽南部日本海沿岸地域中心に上杉派を統率し家中での主権握っていた。元亀元年1570年)、土佐林氏と関係の深い越後国人・大川長秀が尾浦城攻め込むと、義氏と禅棟は対立。義氏は本庄繁長通じて上杉謙信調停依頼し事態収拾させた。するとその翌年元亀2年1571年)に、今度は禅棟配下国人竹井時友が反乱起こし谷地館に篭城する。義氏はこれを機とし挙兵土佐林氏・反大宝寺勢力徹底的に討伐し、弱った家中軍政の面で縛り上げ出羽のうち田川郡櫛引郡遊佐郡の3郡を手中に収めるなど大宝寺氏往来勢力復権させることに成功した。義氏20歳での成業である。 なお、大宝寺氏大泉荘の地頭出身あり、か田川郡櫛引郡南部がこの大泉荘に含まれたため、領国を荘内と呼んでいた。そして義氏の蹟により遊佐郡までを治めたため、現在の山形県日本海沿岸から出羽山地に至るまでの地域庄内地方と呼ぶに至った

※この「家督相続と三郡掌握」の解説は、「大宝寺義氏」の解説の一部です。
「家督相続と三郡掌握」を含む「大宝寺義氏」の記事については、「大宝寺義氏」の概要を参照ください。

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