周辺情勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 09:51 UTC 版)
蘆名氏はこの頃、混乱を迎えていた。盛隆の代に蘆名氏が伊達輝宗と組んで始めた越後への介入、新発田重家に対する支援が、盛隆が死に、伊達氏からの養子が未遂に終わり、伊達氏の当主が輝宗の隠居により政宗に代替わりすることで破綻していった。新発田重家に対抗する越後の上杉景勝と政宗が組んで、新発田氏・蘆名氏を攻撃する情勢となり、また上杉氏や伊達氏は度重なる当主交代に混乱する蘆名氏の家臣団を調略することで、その勢力を削いでいった。 天正13年(1585年)5月、伊達政宗が蘆名と開戦(関柴合戦)、これは蘆名氏が撃退するものの、秋には上杉景勝が新発田領への侵攻の際、伊達氏が領内の通過を許可するなど、蘆名・新発田側と上杉・伊達側が対立し、蘆名側は劣勢に立たされていった。同年11月17日(1585年1月6日)に佐竹氏および蘆名氏らの南奥諸大名の連合軍と伊達氏の間で人取橋の戦いが起こり、これには勝利した。
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