消口争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 01:29 UTC 版)
火消が火事場に到着すると、組の名前を書いた木札(消札、けしふだ)を近所の軒先に掲げ、纏持を屋根に登らせて集合の目印にするとともに、誰が活動しているのかを知らしめた。消札は褒美を受けるときの証拠でもあったため、後から駆けつけたにもかかわらず自身の組の札と勝手に取り替えるもの、纏持を屋根から無理やり降ろして自身の組で火事場を乗っ取ろうとするものなどが現れ、肝心の消火活動をせずに喧嘩をはじめることも頻繁であった。幕府はしばしば触を出して火事場での喧嘩を禁止したが、江戸時代初期には武家火消同士で、町火消誕生後は武家火消と町火消で、武家火消が衰退すると町火消同士で、といった具合で功名争いは絶えず、喧嘩がなくなることはなかった。 享保3年(1718年)、定火消と加賀鳶の間に起きた喧嘩では、現場での消口争いから始まり、死者を出した定火消側の仙石兵庫が加賀藩主前田綱紀に賠償を求める事態となる。老中への訴え、町奉行大岡忠相による調査と続き、最終的には将軍徳川吉宗が仙石兵庫に厳重注意を与える結末となる、大騒動であった。
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