消失に関する記録とは? わかりやすく解説

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消失に関する記録

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 16:45 UTC 版)

サンタ・カタリナ・ド・モンテ・シナイ」の記事における「消失に関する記録」の解説

フランスによる拿捕という記録——これが真実であれば1590年の1例と併せて僅か2例しかないポルトガルインド艦隊英語版所属艦が敵により拿捕されたケースのひとつということになる——は、16世紀史家であるガスパル・コレア(英語版) (彼は信憑性欠け記述少なくなく、本件については風聞であると見なされている)および同じ16世紀史家のフランシスコ・デ・アンドラーダによるものである。コレア、アンドラーダ両名とも、ルイス・デ・メネゼスがサンタ・カタリナ・ド・モンテ・シナイ乗り込んだ述べており、更にその兄弟である前総督ドゥアルテ・デ・メネゼス(英語版)が僚船サン・ジョージに乗っていたとしている。 史家達が述べるところでは、ドゥアルテは、本国での裁き免れるべく艦船奪取してカスティーリャないしフランスへ遁走しかねない、との虞から監視下に置かれていた。モザンビーク島至った際、艦隊インド艦隊英語版)に就役すべく航海中の船団から本国最新事情を得、ドゥアルテポルトガル帰国後の沙汰恐れていたほどひどくはないようだと考えた喜望峰通過後、ドゥアルテテーブル湾英語版)(aguada de Saldanha)にて乗艦停泊させ飲料水補給させると共に兄弟であるルイス対しセントヘレナ合流するので先行するようにと指示した。しかしこの時、南アフリカ沿岸地域激しい嵐が襲ったドゥアルテセントヘレナ至った際、当地にはルイス痕跡すら見当たらず、彼はルイス乗艦がこの嵐によって沈められたものと考えた1527年ジョアン3世はディオゴ・ボテリョ・ペレイラ(英語版率い船団急派し、喜望峰からコレンテス岬(英語版)までのアフリカ沿岸部にルイス・デ・メネゼス乗艦痕跡が無いか捜索させた。ポルトガル帰投した船団は、沿岸海域で彼方に十字型灯火目撃したことを報告し、船が難破したポルトガル水夫が灯したものではないか推定した。これはルイス・デ・メネゼス艦乗員生き残りであろう考えられた。しかしながら数ヶ月後に捜索した際には、ディオゴ・ボテリョ・ペレイラは彼等痕跡発見できなかった。 史家コレアとアンドラーダによると、1536年ポルトガル警備隊長ディオゴ・デ・シルヴェイラがポルトガル近海フランス海賊捕縛した際、男の兄弟(やはり海賊である)が十年前大西洋にてルイス・デ・メネゼスの船を拿捕したという供述得た。彼が述べるところでは、その船は浸水により航行困難であり、ルイスはすぐにフランス海賊投降した。しかしこの海賊積荷を奪うと、洋上でこのポルトガル船に放火したルイス含め乗員達はまだ船内におり、船と命運を共にさせられたという。 コレアとアンドラーダの記述に基づけば、これがサンタ・カタリナ・ド・モンテ・シナイ最期である。しかしながら記録上でメネゼス兄弟乗艦取り違えがあり、ドゥアルテがより大型サンタ・カタリナ乗船してルイスがサン・ジョージに乗っていた可能性否定できないその場フランス海賊拿捕されたのはサン・ジョージであり、サンタ・カタリナ航海継続できたことになる。 コレアドゥアルテ乗艦本国至って最初に寄港したファロ(アルガルヴェの港)での様子記録している。当地での停泊中、ドゥアルテは王の不興ぶりを聞いてリスボンで己を待ち受けている沙汰察し船内にあった私財大半密かに持ち出してファロに住む従姉妹預けたという。その後ドゥアルテ乗艦指揮掌握し乗船員達の反抗押し切るかたちで、残る私財携え自領であるセジンブラの地で下船したその日夕刻、艦がセジンブラ出航しようとした時、俄に暴風起こり船体巻き上げて岸辺叩きつけた。コレア述べるところでは、暴風起こった際に何者かが——おそらくはドゥアルテ指示で——密かに錨を繋ぐ索を切って故意船体浮かび上がりやすくしたという。積荷財宝全て失われたコレアドゥアルテ意図について以下の様に述べる。 "so that people would think all his wealth was lost...and he could show equal loss before the king and all mankind, with the loss of his brother and of so many of his people, with the king's loss" これが考えられ得るもうひとつサンタ・カタリナ最期である。 後日、ドゥアルテ・デ・メネゼスはアルメイリン(英語版)で開かれた法廷召喚されジョアン3世による手短な聴取受けた後、逮捕された。彼はトレス・ヴェドラス(英語版)の地に収監されたが、私財隠し場所について自供期待したジョアン3世によって処刑差し止められた。伝えられるところでは、公認非公認問わず数多トレジャーハンター達がファロ周辺浜辺探し回り、彼が埋めた財宝探し出そうとしたという。[要出典]

※この「消失に関する記録」の解説は、「サンタ・カタリナ・ド・モンテ・シナイ」の解説の一部です。
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