家督相続、厳島の戦いとは? わかりやすく解説

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家督相続、厳島の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:54 UTC 版)

毛利隆元」の記事における「家督相続、厳島の戦い」の解説

天文15年1546年)、元就の突然の隠居表明により、家督相続し第13代毛利家当主となるが、元就隠居後毛利家実権掌握しており、隆元依然として元就麾下一武将の扱いであった。これは、毛利家を覆う事情依然として険しかったという理由もあるが、自分器量自信持てない隆元が、実権移譲辞退したためともされる。 家督相続前後から、元就要請により老臣志道広良隆元訓育にあたるようになった天文18年1549年)、大内義隆養女大内氏重臣内藤興盛の娘と結婚する。後にこの女性は隆元生活していた屋敷尾崎丸)の名前から尾崎局呼ばれ、幸鶴丸(後の輝元)を含む二男一女恵まれる。隆元この女性を深く愛したとされ、生涯側室を持たなかった。戦場から妻にあてて「たいした事は起きていないが、この手紙を預ける男が吉田に戻ると言うので手紙書いた」という律儀一文から始まる手紙残っている。なおこの時興盛から、船岡山合戦以来着用してきた嘉例重宝「縹糸胸紅白胴丸」(毛利博物館)を贈られており、興盛娘婿隆元対す期待のほどが窺える天文19年1550年)、父の元就主導の下、専横甚だし井上党が粛清を受け、井上元兼重臣一派殺害された。その後新し毛利家行政官組織として、隆元直属五奉行制度発足した隆元側近赤川元保筆頭奉行とし、国司元相粟屋元親元就側近であった児玉就忠桂元忠参画した。この組織の創設隆元大い貢献したとされるが、主導権握っていたのはやはり元就であったまた、この五奉行制度自体も、当初は親隆元派の官吏達と親元就派の武将達との対立によって運営上手くいかず、元就隆元頭を悩ませた。しかし、隆元がこの時期著した訓戒状の条文多くは、後の毛利家御家訓収録され後述宗家運営模範とされるのである天文20年1551年)、大内義隆重臣陶隆房陶晴賢)により自害追い込まれると、いずれ陶氏毛利にも攻めてくると判断して陶氏打倒主張した。しかし、元就戦力劣勢理由慎重な姿勢を崩さなかった。そこで隆元重臣たちを動かして元就翻意促すべく、家中陶氏横暴無慈悲ぶりを喧伝けんでん)して回った。その甲斐あってか、間もなく元就もまた陶との対決決めることとなる。 弘治元年1555年)、父と共に旧友陶晴賢厳島の戦い滅ぼした隆元元就と共に本陣率いて厳島渡海した。

※この「家督相続、厳島の戦い」の解説は、「毛利隆元」の解説の一部です。
「家督相続、厳島の戦い」を含む「毛利隆元」の記事については、「毛利隆元」の概要を参照ください。

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