家督相続、厳島の戦い
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天文15年(1546年)、元就の突然の隠居表明により、家督を相続して第13代毛利家当主となるが、元就は隠居後も毛利家の実権を掌握しており、隆元は依然として元就麾下の一武将の扱いであった。これは、毛利家を覆う事情が依然として険しかったという理由もあるが、自分の器量に自信が持てない隆元が、実権の移譲を辞退したためともされる。 家督相続前後から、元就の要請により老臣の志道広良が隆元の訓育にあたるようになった。 天文18年(1549年)、大内義隆の養女で大内氏の重臣の内藤興盛の娘と結婚する。後にこの女性は隆元が生活していた屋敷(尾崎丸)の名前から尾崎局と呼ばれ、幸鶴丸(後の輝元)を含む二男一女に恵まれる。隆元はこの女性を深く愛したとされ、生涯側室を持たなかった。戦場から妻にあてて「たいした事は起きていないが、この手紙を預ける男が吉田に戻ると言うので手紙を書いた」という律儀な一文から始まる手紙が残っている。なおこの時興盛から、船岡山合戦以来着用してきた嘉例の重宝「縹糸胸紅白威胴丸」(毛利博物館蔵)を贈られており、興盛の娘婿隆元に対する期待のほどが窺える。 天文19年(1550年)、父の元就の主導の下、専横甚だしい井上党が粛清を受け、井上元兼ら重臣一派が殺害された。その後、新しい毛利家の行政官僚組織として、隆元直属の五奉行制度が発足した。隆元側近の赤川元保を筆頭奉行とし、国司元相・粟屋元親、元就の側近であった児玉就忠と桂元忠も参画した。この組織の創設に隆元は大いに貢献したとされるが、主導権を握っていたのはやはり元就であった。また、この五奉行制度自体も、当初は親隆元派の官吏達と親元就派の武将達との対立によって運営が上手くいかず、元就も隆元も頭を悩ませた。しかし、隆元がこの時期に著した訓戒状の条文の多くは、後の毛利家の御家訓に収録され(後述)宗家運営の模範とされるのである。 天文20年(1551年)、大内義隆が重臣の陶隆房(陶晴賢)により自害に追い込まれると、いずれ陶氏は毛利にも攻めてくると判断して陶氏打倒を主張した。しかし、元就は戦力的劣勢を理由に慎重な姿勢を崩さなかった。そこで隆元は重臣たちを動かして元就に翻意を促すべく、家中に陶氏の横暴無慈悲ぶりを喧伝(けんでん)して回った。その甲斐あってか、間もなく元就もまた陶との対決を決めることとなる。 弘治元年(1555年)、父と共に旧友の陶晴賢を厳島の戦いで滅ぼした。隆元は元就と共に本陣を率いて厳島に渡海した。
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