滅亡と勝利
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/18 15:58 UTC 版)
「ヨハネス・R・ベッヒャー」の記事における「滅亡と勝利」の解説
この時代、父の支配の代わってモルヒネの支配を受けるようになった。ハインリヒ・F・S・バックマイヤー(ドイツ語版)と一緒に、医学の研究を志願するためにベルリンに行き、お金が無かったために、貧しい東ベルリンに住んだ。ハインリヒ・フォン・クライスの死後100年を記念して、ベッヒャーは最初の詩『Der Ringende』を一緒に新しく設立したハインリヒ・F・S・バックマイヤー(ドイツ語版)社で出版した。このときから、ハンス・ロベルトは、ヨハネス・R・ベッヒャーという名で知られるようになった。 研究は、出版のために手がつかなくなったが、それにもかかあわらず出版社の経営はすぐに終わった。1912年に彼は再びミュンヘンに戻り、両親の実家の助けを望んだ。バックマイヤーは、ヴァルター・ハーゼンクレーバー(ドイツ語版)からエルゼ・ラスカー=シューラーまで、多くの有名な表現主義者を仲間にできたにもかかわらず、経営の才能が完全に欠落していたために、すぐに破産した。わずか3年後には、出版社は競売にかけられた。 この年に、ベッヒャーは、エミー・ヘニングス(ドイツ語版)と知り合い、彼女から受けた影響は、美に関するものだけではなく、モルヒネ中毒と、そのせいで生じた貧乏生活、ミュンヘン、ライプツィヒ、ベルリンの往復生活も彼女からの影響だった。沢山の禁断療法を1918年まで施したが失敗した。ハリー・グラフ・ケスラー(ドイツ語版)やキッペンベルク(ドイツ語版)夫妻のようなパトロンや支援者を騙すことで、なんとか生計を立てることができた。両親とは音信不通のままだった。彼は事前に何ヶ月もの給料を担保に借金もしていた。この時代に、最も重要な彼の表現主義的作品『滅亡と勝利(Verfall und Triumph)』が誕生したのは偶然ではない。 戦争と政治の時代がやってきたが、かつての銃創ゆえに、彼は徴兵を恐れることはなかった。ベッヒャーのように多くの表現主義者は、「20世紀の2つの政治的宗派である国家社会主義と共産主義のいずれかのひとつに」たどり着いていた。とはいえ、彼の政治に関する伝記は、今日でも――慎重に言えば――極めて多様に表現されている。彼の政治の関わりについては、「政治思想の痕跡は少しもない」、「革命は机上で行われた」とも、(ルクセンブルクとリープクネヒトの殺害に関して)「暴力革命との連帯感」を感じていたとも、「日常闘争」を貴族的に自制したとも言われている。ドイツ独立社会民主党とドイツ共産党へ加入したことにも、異論の余地があるようである。1918年には、弟のエルンスト・ベッヒャーがシュヴァービング霊園で自殺するという彼にとって極めて衝撃的な事件が起こった。このことは彼を更生させるきっかけになったと見られている。彼は再びモルヒネの禁断治療を受けて、今後は成功したからである。11月革命が起き、ドイツ国内が内戦的な状態になっている時代に、ベッヒャーの人生は再び軌道に乗り始めた。イェーナで彼は、他の知人・友人と違って、革命家にはならなかった。「私がバリケード上でも、演説上でも革命に参加しない」で、「インクでできたバリケード」だけに登ったので、当時の彼の短い人間関係は壊れた。 イェーナでベッヒャーは、共産主義東部連合に参加した。党への熱意は長くは続かず、カトリック教会に逃げ場を探すために脱会した。この時代の作品について彼は「いわゆる政治的表現主義の歌詞に囚われずに、試行錯誤した。私の目的は、内的に満たされたクラシックである」。 芸術的には、ベッヒャーは表現主義的な段階にあり、芸術協会であるディー・クーゲル(ドイツ語版)寄りであり、特に雑誌『滅亡と勝利(Verfall und Triumph])』、『ディー・アクツィオーン(ドイツ語版)、『新芸術(Die neue Kunst)』などで作品を発表した。アルベルト・エーレンシュタイン(ドイツ語版)と一緒に、短い間だがクルト・ヴォルフ(ドイツ語版)出版で編集者を始める。
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