滅亡とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 09:35 UTC 版)
キリスト教徒の征服が差し迫った1487年、グラナダの法学者たちはムハンマド11世に対し、マムルーク朝に使節を派遣し救援を求めるよう迫ったが、マムルーク朝の援軍は派遣されず、グラナダ攻略の見合わせを求めるキリスト教修道士(聖墳墓教会)2名がカトリック両王に派遣されただけであった。 1491年春にフェルナンド2世の1万騎の軍勢によりグラナダは包囲され、年末には籠城側の窮乏は限界となった。1491年末にムハンマド11世とカトリック両王間で降伏協定が結ばれ、1492年1月2日にグラナダは無血開城しレコンキスタが完了した 。最後のナスル朝君主であったムハンマド11世は、一旦は開城時の協定により与えられたシエラネバダ山中の所領(アブ・バシァラート)に退いたものの、後にフェズへと亡命し、ナスル朝は滅亡した。 1492年3月末にスペイン王国のユダヤ教徒に対して改宗か国外退去を命じるユダヤ人追放令が出された。これはコンベルソ(キリスト教へ改宗したユダヤ教徒)のカトリック信仰を徹底するためのもので、これの障害となるユダヤ教徒との接触を根絶するためのものであった。1499年10月にグラナダに赴任した枢機卿シスネロスはムデハル(キリスト教徒支配下のイスラーム教徒)に対し強制的な手法(クルアーンの焼却など)を用いたために反乱を招くこととなった。この反乱を開城時の協定に対する違反と見たカトリック両王は、1502年にカスティーリャ王国(この段階でのスペイン帝国は連合王国であり、そのうちのカスティーリャを指す)でムデハルに改宗を迫る法令を出し、後にスペイン全域にまで拡大された。
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