筒井氏の滅亡とその後
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定次は羽柴秀吉の家臣として仕えた。中坊秀祐の讒言を受け入れて重臣の島清興と対立し、これを追放してしまう。さらに秀吉も大和には信用できる身内を置いておきたいという考えから、定次は天正13年(1585年)、伊賀上野に移封された(大和は秀吉の弟・秀長が入った)。これは四国征伐の武功による加増と言われているが、実質は40万石から20万石もの減封である。このため、筒井氏は家臣の多くを改易し、伊賀の土豪をも潰していかざるを得なかったといわれている。 定次はこの秀吉の仕打ちを恨んだのか、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与したため所領を安堵され、伊賀上野藩を立藩した。しかし1608年、幕命により改易され伊賀上野藩20万石は廃藩となった。定次自身の身柄は鳥居忠政預かりとされた。改易の理由は、定次が酒色に溺れて政務を顧みなかったこと、キリシタンであったことなどのほかに、筒井氏のような外様大名を畿内に置いておくのは危険と考えた幕府の有力外様大名取り潰し政策の一環とも伝えられている(筒井騒動)。 そして慶長20年(1615年)、定次は大坂冬の陣で城方に内通したという責めによって、幕命により息子の筒井順定と共に自害を命じられた。その後、従弟の筒井定慶が大和郡山1万石を与えられたが、大坂夏の陣で定慶が戦死したため、大名としての筒井氏は滅亡した。 順慶の養子で定慶の弟とされる順斎(福住順弘の次男)は徳川家康に仕え旗本となり、1千石を与えられ家名は幕末まで続いた。幕末に日露和親条約の交渉を行った筒井政憲と、マシュー・ペリーの来航の際、国書受取の場・久里浜で警備隊を指揮していた下曽根信敦父子はその末裔である(信敦は久世氏の出身で、養子として筒井氏を継いでいる)。他にも順慶に連なるとされる旗本筒井家があるが、順斎系と同様、系譜関係は確実なものではない。さらに、順慶実子として筒井新兵衛(母は南石蛸助の娘)の名が知られるが、学術的な検討を経てはいない。なお、筒井順正については近代の附会であり、大和筒井氏とは関係が認めがたい。
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