筒井氏の滅亡とその後とは? わかりやすく解説

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筒井氏の滅亡とその後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/12 07:28 UTC 版)

筒井氏」の記事における「筒井氏の滅亡とその後」の解説

定次は羽柴秀吉家臣として仕えた中坊秀祐讒言受け入れて重臣島清興対立し、これを追放してしまう。さらに秀吉大和には信用できる身内置いておきたいという考えから、定次は天正13年1585年)、伊賀上野移封された(大和秀吉の弟・秀長が入った)。これは四国征伐武功による加増と言われているが、実質40万石から20万石もの減封である。このため筒井氏家臣多く改易し、伊賀土豪をも潰していかざるを得なかったといわれている。 定次はこの秀吉仕打ち恨んだのか、慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍与したため所領安堵され、伊賀上野藩立藩した。しかし1608年幕命により改易され伊賀上野藩20万石廃藩となった。定次自身身柄鳥居忠政預かりとされた。改易の理由は、定次が酒色溺れて政務顧みなかったこと、キリシタンであったことなどのほかに、筒井氏のような外様大名畿内置いておくのは危険と考えた幕府の有力外様大名取り潰し政策一環とも伝えられている(筒井騒動)。 そして慶長20年1615年)、定次は大坂冬の陣城方内通したという責めによって、幕命により息子筒井順定と共に自害命じられた。その後従弟筒井定慶大和郡山1万石を与えられたが、大坂夏の陣定慶戦死したため、大名として筒井氏滅亡した順慶養子定慶の弟とされる順斎(福住順弘次男)は徳川家康仕え旗本となり、1千石与えられ家名幕末まで続いた幕末日露和親条約交渉行った筒井政憲と、マシュー・ペリー来航の際、国書受取の場・久里浜警備隊指揮していた下曽根信敦父子その末裔である(信敦は久世氏出身で、養子として筒井氏継いでいる)。他にも順慶連なるとされる旗本筒井家があるが、順斎系と同様、系譜関係は確実なものではない。さらに、順慶実子として筒井新兵衛(母は南石蛸助の娘)の名が知られるが、学術的な検討経てはいない。なお、筒井順正については近代附会であり、大和筒井氏とは関係が認めがたい。

※この「筒井氏の滅亡とその後」の解説は、「筒井氏」の解説の一部です。
「筒井氏の滅亡とその後」を含む「筒井氏」の記事については、「筒井氏」の概要を参照ください。

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