筒井氏との合戦とは? わかりやすく解説

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筒井氏との合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/28 02:05 UTC 版)

越智家栄」の記事における「筒井氏との合戦」の解説

大和の国人・越智氏越智維通(家経?)の子として誕生幼名は春童丸永享11年1439年)、父・維通は大和永享の乱首謀者として箸尾為憲次郎左衛門同一人物か)、大覚寺門跡義昭と共に室町幕府討たれた。幼い春童丸(家栄)に変わって楢原氏(実名不詳)が越智氏継いだが、嘉吉元年1441年7月に春童丸楢原氏を破って当主になった背景には、この年6月6代将軍足利義教暗殺され嘉吉の乱)、それに伴い復権した河内国守護畠山持国後押しがあった。 同年先の戦で幕府についた筒井氏内訌起こり摂津国河上五ヶ関務代官職巡って筒井順弘と弟の成身院光宣筒井順永対立、順弘が光宣派に敗れると家栄は順弘を援助して筒井城奪回惣領就けたが、嘉吉3年1443年)に順弘が殺害される河上五ヶ関の直接支配狙った大乗院門跡経覚古市胤仙豊田頼英小泉重弘らと組んで光宣筒井城封じ込め管領となった畠山持国後援もあって大和経覚派の支配下になった。 ところが、文安2年1445年)に光宣反撃経覚派が築いた鬼薗山城落として五ヶ関代官職獲得以降一進一退の中、享徳2年1453年)の古市胤仙急死きっかけに両派は翌年和解した長禄2年1458年)に赤松氏遺臣後南朝襲撃及び神璽奪還協力している(長禄の変)。

※この「筒井氏との合戦」の解説は、「越智家栄」の解説の一部です。
「筒井氏との合戦」を含む「越智家栄」の記事については、「越智家栄」の概要を参照ください。

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