筒井定慶
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筒井 定慶(つつい じょうけい[1]/さだよし[2]、生年不詳 - 慶長20年5月10日〈1615年6月6日〉?[3])は、戦国時代から江戸時代にかけての大名、武将。大和国福住に住した。福住順弘の子で、筒井順慶の養子になったとされる。通称は藤五郎、官位は従五位下主殿頭。弟に筒井慶之がいる。
注釈
脚注
- ^ a b c 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、523頁。ISBN 4-404-01752-9。
- ^ "筒井定慶". デジタル版 日本人名大辞典+Plus. コトバンクより2022年3月31日閲覧。
- ^ 『断家譜』。
- ^ 籔 1985, pp. 219–220.
- ^ a b c d 籔 1985, p. 220.
- ^ a b c 籔 1985, p. 221.
- ^ 筑波大学附属図書館所蔵、351コマ。奈良県立図書情報館所蔵、306コマ。盛岡市中央公民館所蔵、292コマ。
- ^ 籔 1985, pp. 221–222.
- ^ 籔 1985, pp. 222–223.
- ^ a b c 籔 1985, p. 223.
- ^ 籔 1985, pp. 223–224.
- ^ a b c d e f g h i j 朝倉弘『奈良県史 第十一巻 大和武士』名著出版、1993年、431-432頁。ISBN 4-626-01461-5。
- ^ a b c d e f g h i 『寛政重修諸家譜』巻第千九十七(『寛政重脩諸家譜 第6輯』國民圖書、1923年、701-702頁)。
筒井正次
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『寛政重修諸家譜』には、福住順弘の二男で筒井順慶の養子になった人物として筒井順斎の名があり、その子として正次がいる。正次の仮名は藤五郎、官途は主殿助、または主殿頭。諱は政次ともされる。 順斎は大和国福住に5,000石、武蔵国足立郡に1,000石を領し、慶長15年(1610年)に死去した。その跡を継いだ正次は、慶長20年(1615年)の大坂の陣の際、郡山城を守備し、大軍の大野治房らに対し寡兵で抗しきれず城を退去。5月3日に自害した。享年27。 『和州諸将軍伝』に登場する定慶は5月10日に28歳で自害したとあり、この定慶は正次と同一人物とも考えられる。 正次の跡は子の正信が継いでおり、大和の所領は失ったものの、その後も旗本として続いた。日露和親条約の交渉を行った筒井政憲はその末裔となる。
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