郡山城の戦いとは? わかりやすく解説

郡山城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 22:37 UTC 版)

郡山城 (大和国)」の記事における「郡山城の戦い」の解説

寛政重修諸家譜』によると、大坂の陣の頃の郡山城には筒井一族筒井正次入り天正20年1615年4月豊臣方大野治房らに攻められて城を去り5月3日自害したとされるまた、郡山城入城していたのは筒井定慶と慶之の兄弟ともいわれ、二人徳川家康から1万石の知行200石の与力36名を預けられていたとされる大坂冬の陣終結し大坂城内堀埋め立てられ再度東西決戦雰囲気となった際、豊臣方使者細川兵助郡山城出向いて筒井氏合力求めてきた。豊臣方出した条件は「合力すれば兵1万を送る。戦勝し時には筒井定慶には大和国を、筒井慶之には伊賀国与える。但し徳川方に付くのであるならば攻撃開始する」という内容であった細川兵助説得続けたが、筒井家大坂方の要請断った天正20年1615年4月26日豊臣方大野治房箸尾高春細川兵助ら2千余の兵を出陣させ、暗峠越えて郡山城迫ってきた。これに対して筒井定慶は、筒井順慶時代から恩義のある浪人衆、農民衆、商人衆集結させ、1千兵程度になった大坂方(豊臣軍)は松明掲げながらの夜間行軍であった筒井軍は戦馴れしていなかったことから、大坂方の兵力見誤り実数よりも多い「3大軍」であるとの物見からの報告を受け、定慶郡山城撤収し福住城移動した。この動き筒井慶之は「腑甲斐無し」と激怒し手勢徹底抗戦命じたが、慶之に従う者は殆どおらず、自身もわずか4、5名の供の者と興福寺妙喜院に逃走した。 翌27日未明大坂方は九条口と奈良口の2隊に分け攻城開始した郡山城にはわずかな兵が残っており、30人討ち取られ城下町各方面に火が放たれた。その後大坂方は奈良方面進軍し徳川方への備え敷いたが、徳川方奈良方面進軍しているとの報を受けると、大坂城引き上げていった。 福住城1000余り防備固めていた筒井定慶は、大坂夏の陣大坂城落城すると、一戦もすることなく郡山城捨てたことに後悔し大坂城落城から3日後の5月10日、弟の筒井慶之遺書残し切腹しとされる。『戦国合戦事典』では「表向き自害称して蟄居するうち病死したという説もある」という別説紹介されている。筒井慶之も兄を追って自殺したとされている。

※この「郡山城の戦い」の解説は、「郡山城 (大和国)」の解説の一部です。
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