郡山城主時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 14:48 UTC 版)
文禄4年(1595年)、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が没すると6月、大和国郡山城20万石の所領を与えられる。同年、常陸の地3千石を加増され、紀伊・和泉・大和の秀吉直領の代官を兼ねた。秀吉の晩年には五奉行となる。慶長2年(1597年)には再び安房国を訪れて、総検地を施行している。 慶長の役では開戦後国内にいたが、慶長4年(1599年)に予定されていた大規模攻勢では福島正則・石田三成とともに出征軍の大将となることが決定していた。しかし、慶長3年(1598年)8月に秀吉が没したためこの計画は実現しなかった。
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