筒井順慶時代
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筒井城の戦いで筒井城が松永久秀軍に属すると、郡山城は福住中定城と共に筒井順慶軍の拠点となっており、元亀元年(1570年)3月から元亀2年(1571年)8月まで松永久秀、松永久通親子の攻撃をうけていた。松永久秀軍は、郡山城の四方に付城を築き、時間をかけて攻める攻城戦を行っていた。同年8月4日辰市城の合戦で、松永久秀軍と決戦となった時、筒井順慶増援軍は一旦郡山城らに集結してから辰市城に出軍した。 その後、筒井順慶が織田信長の援助を得て、天正8年(1580年)11月大和国守護となると郡山辰巳は殺され、家来衆はそのまま筒井順慶に組み込まれた。 その少し前、天正7年(1579年)8月に、多聞山城の石垣を運んだりし、筒井城を拡張していたが地形の不利から筒井城をあきらめ、郡山城を本城とする改修を開始し天正11年(1583年)4月に「天守」が完成する(『多聞院日記』)。織田信長は天正8年(1580年)8月に破城令を出し大和国では一城とし、筒井城もこの時に破却して郡山城の一城のみとなった。「織田信長は大和に争乱の時代が終わったことを示そうとしていた」と指摘されている。天正9年(1581年)から明智光秀が普請目付として着手し、大規模な近世城郭として工事が開始され、奈良の大工衆を集めたことが記録されている。しかし、その筒井順慶も天正12年(1584年)に死去すると、養子の筒井定次は豊臣秀吉の命により伊賀上野城へ転封となった。
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