筒井順慶時代とは? わかりやすく解説

筒井順慶時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 22:37 UTC 版)

郡山城 (大和国)」の記事における「筒井順慶時代」の解説

筒井城の戦い筒井城松永久秀軍に属すると、郡山城福住中定城と共に筒井順慶軍の拠点となっており、元亀元年1570年3月から元亀2年1571年8月まで松永久秀松永久通親子攻撃をうけていた。松永久秀軍は、郡山城四方付城築き時間をかけて攻め攻城戦行っていた。同年8月4日辰市城の合戦で、松永久秀軍と決戦となった時、筒井順慶増援軍は一旦郡山城らに集結してから辰市城出軍した。 その後筒井順慶織田信長援助得て天正8年1580年11月大和国守護となると郡山辰巳殺され家来衆はそのまま筒井順慶組み込まれた。 その少し前、天正7年1579年8月に、多聞山城石垣運んだりし、筒井城拡張していたが地形の不利から筒井城あきらめ郡山城本城とする改修開始し天正11年1583年4月に「天守」が完成する(『多聞院日記』)。織田信長天正8年1580年8月破城令を出し大和国では一城とし、筒井城もこの時に破却して郡山城の一城のみとなった。「織田信長大和争乱時代終わったことを示そうとしていた」と指摘されている。天正9年1581年)から明智光秀普請目付として着手し大規模な近世城郭として工事開始され奈良大工衆を集めたことが記録されている。しかし、その筒井順慶天正12年1584年)に死去すると、養子筒井定次豊臣秀吉の命により伊賀上野城転封となった

※この「筒井順慶時代」の解説は、「郡山城 (大和国)」の解説の一部です。
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