筒井順覚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/22 07:40 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動時代 | 室町時代 |
---|---|
生誕 | 不詳 |
死没 | 永享6年(1434年) |
幕府 | 室町幕府 |
主君 | 足利義持→足利義教 |
氏族 | 筒井氏 |
子 | 筒井順弘 筒井光宜 筒井尊覚 筒井実憲 筒井順永 |
筒井 順覚(つつい じゅんかく、生年不明 - 1434年)は、室町時代の興福寺僧徒。筒井家初代当主。
人物
筒井郷を本拠とし、順覚の時代には、筒井館という城館を居城にしていたほどで、大和では強い勢力を持っている。南北朝時代以降の興福寺は、一乗院派と大乗院という門跡が対立しており、僧徒も二派に分裂して争っていた。順覚は一乗院派に加担し、大乗院派の十市家、古市家、豊田家などと対立した。応永11年(1404年)一乗院派の箸尾為妙が、大乗院派に寝返り、十市遠重とともに兵を挙げ、順覚の所領に乱入して筒井郷を焼き払うという事件が起こった。順覚は箸尾・十市が旧南朝勢力を支援していると幕府に訴え、幕府の支援を得た順覚は箸尾・十市連合軍を破った。応永21年(1414年)興福寺と対立していた多武峰寺が興福寺衆徒の沢家と衝突して戦乱が勃発した。4代将軍足利義持は両陣営停戦を命じたが収まらず、順覚は越智家・布施家・十市家らとともに兵を出して沢家を支援した。幕府は興福寺の衆徒を上洛させて停戦を命じ、順覚らは幕命にしたがって撤退した。[1]
永享元年(1429年)に順覚が6代将軍となった足利義教に謁した。永享6年(1434年)越智氏と戦って破れ戦死した。[2]
脚注
|
- 筒井順覚のページへのリンク