大和古市氏
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大和国添上郡古市(現在の奈良県奈良市古市町)を本拠とする国人。興福寺大乗院方の衆徒。古市城を築いた。 出自については、『和州国民郷土記』に清原氏で舎人親王の末孫とあり、「聞書覚書」(『大和志料』)には古市に住した清原夏野の子孫とあるが、いずれも近世の史料であり確証はない。 古市氏がその名を名乗り始めた時期は不明だが、正中2年(1325年)に古市但馬公の名が見える。至徳3年(1386年)には、筒井順覚らとともに古市胤賢が衆中沙汰衆に就いており、大乗院方の代表的な衆徒となっていた。 嘉吉2年(1442年)より大乗院門跡・経覚と筒井氏が争うと、胤賢の孫・胤仙は経覚方として戦った。 享徳2年(1453年)に胤仙が没し、その子・胤栄が跡を継ぐ。応仁元年(1467年)に応仁の乱が始まると、胤栄は西軍として参戦した。胤栄は古市家中の裁判権を掌握するなどして家臣団統制を強化したが、一族や被官から反発を受けたためか、文明7年(1475年)に隠居した。 胤栄の隠居後、弟の澄胤が家督を継ぐ。応仁の乱以来、大和の国人は筒井党と越智党に分かれて争っており、澄胤は越智家栄に次ぐ越智党の中心人物として活動した。当初は越智党が優勢で、古市氏も澄胤のもと最盛期を築いたが、明応6年(1497年)に筒井党との合戦に敗れ、古市氏は没落する。その後、古市氏を除く大和国人の間で和睦が結ばれ、澄胤は大和に侵入する細川氏の部将、赤沢朝経・長経に味方して大和国人らと戦った。 永正5年(1508年)に澄胤が戦没した後、大和では再度筒井方と越智方に分かれての抗争が始まり、澄胤の跡を継いだ公胤は越智方に付いた。以後、古市氏は筒井方との間で和戦を繰り返し、永禄2年(1559年)に三好氏家臣・松永久秀が大和に進出してくるとそれに従った。 また、古市氏は風流を嗜み、胤仙は古市城内で連歌会を催した。子の胤栄や澄胤も連歌や茶の湯を行っている。澄胤主催の会には、応仁の乱の戦乱を避け奈良に下っていた公家や芸能人も参加したという。
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