大和古市氏とは? わかりやすく解説

大和古市氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/31 10:30 UTC 版)

古市氏」の記事における「大和古市氏」の解説

大和国添上郡古市現在の奈良県奈良市古市町)を本拠とする国人興福寺大乗院方の衆徒古市城築いた出自については、『和州国民郷土記』に清原氏舎人親王末孫とあり、「聞書覚書」(『大和志料』)には古市住した清原夏野の子孫とあるが、いずれも近世の史料であり確証はない。 古市氏がその名を名乗り始めた時期不明だが、正中2年1325年)に古市但馬公の名が見える。至徳3年1386年)には、筒井順覚とともに古市胤賢が衆中沙汰衆に就いており、大乗院方の代表的な衆徒となっていた。 嘉吉2年1442年)より大乗院門跡経覚筒井氏が争うと、胤賢の孫・胤仙は経覚方として戦った享徳2年1453年)に胤仙が没しその子胤栄跡を継ぐ応仁元年1467年)に応仁の乱が始まると、胤栄西軍として参戦した胤栄古市家中の裁判権掌握するなどして家臣団統制強化したが、一族被官から反発受けたためか、文明7年1475年)に隠居した胤栄隠居後、弟の澄胤が家督を継ぐ。応仁の乱以来大和の国人は筒井党と越智党に分かれて争っており、澄胤は越智家栄に次ぐ越智党の中心人物として活動した当初越智党が優勢で、古市氏も澄胤のもと最盛期築いたが、明応6年1497年)に筒井党との合戦敗れ古市氏没落するその後古市氏を除く大和国人の間で和睦結ばれ、澄胤は大和侵入する細川氏部将赤沢朝経・長経に味方して大和国人らと戦った永正5年1508年)に澄胤が戦没した後、大和では再度筒井方と越智方に分かれて抗争始まり、澄胤の跡を継いだ公胤越智方に付いた以後古市氏筒井方との間で和戦繰り返し永禄2年1559年)に三好氏家臣松永久秀大和進出してくるとそれに従ったまた、古市氏風流嗜み、胤仙は古市城内で連歌会を催した。子の胤栄や澄胤も連歌茶の湯行っている。澄胤主催の会には、応仁の乱戦乱避け奈良下っていた公家芸能人参加したという。

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