大和制圧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/28 02:05 UTC 版)
康正元年(1455年)、畠山持国が死亡して子の義就と甥の弥三郎、政長兄弟のお家騒動が発生、大和国人も2分された。光宣、順永兄弟は政長方に、家栄は義就につき、寛正元年(1460年)に義就が没落して嶽山城に籠城した時は攻め手として他の大和国人と共に参戦したが、文正元年(1466年)に義就が上洛の構えを見せると家栄も呼応して大和で筒井党に勝利、11月に十市遠清の仲介で光宣と和睦したが、応仁の乱でも義就派として古市胤栄、次いで弟の澄胤と組んで政長派の順永、十市遠清、箸尾為国と戦っている。 文明9年(1477年)9月に義就が河内へ下り、政長の領国河内を制圧すると家栄ら義就派も大和を占拠、筒井順尊(順永の長男)、十市遠清・遠相父子、箸尾為国らを追放した。その後は筒井党のゲリラに苦しめられつつも掃討に務めた。文明10年(1478年)には娘を古市澄胤に嫁がせている。また、義就が支持していた足利義視の西幕府では家栄を高く評価して和泉守護に任じる人事を行うが、乱の終結と共に西幕府が解散したため、幻に終わった。 延徳2年(1490年)、義就が死去。家栄は後を継いだ子の基家(義豊)にも引き続き仕えた。基家は明応2年(1493年)に政長と10代将軍・足利義稙に攻め込まれるが、密かに連携していた細川政元が明応の政変を起こして政長は敗死、義稙を捕縛して新たに従兄の義澄を擁立したので基家は窮地を脱した。それに伴い、家栄と澄胤が上洛している。
※この「大和制圧」の解説は、「越智家栄」の解説の一部です。
「大和制圧」を含む「越智家栄」の記事については、「越智家栄」の概要を参照ください。
- 大和制圧のページへのリンク