筒井氏時代とは? わかりやすく解説

筒井氏時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 03:04 UTC 版)

上野城」の記事における「筒井氏時代」の解説

脇坂安治移封から3ヶ月後の8月郡山城から羽柴の姓を賜った筒井定次伊賀移り住んだ。定次は天正伊賀の乱焼け落ちた平楽寺仁木古館跡に築城することにした。「迅ニ上野之駅ニ入来仁木友梅ノ舗地ヲ囲、仮ニ館ヲ造立シ屢比ニ幽栖ス。而後数千役夫ヲ催、平楽寺薬師寺ニケ場ノ荒地ヲ点シ、文禄年中ニ一城ヲ造畢ヌ。三層高楼ヨリ内外曲輪要害太厳重也」(『伊水温故』)とあり、城は高丘頂上本丸とし、三層天守を建て、本丸の西に二ノ丸北の山下を三の丸配し大手三の丸北谷口とした。城代屋敷北東隅に筒井時代天守があったと考えられている。 慶長5年1600年)、関ヶ原の戦いが起こると定次は東軍徳川家康方につき会津征伐参戦し上野城筒井玄蕃留守居役としたが、上野城西軍摂津高槻城新庄直頼・直定父子攻撃された際、筒井玄蕃戦わず城を明け渡し高野山逃亡した。定次は家康許し得て直ちに軍を引き返し、城を再奪取し事なきを得た上野城の戦い)。 関ヶ原の戦い後新庄直頼父子改易され定次は本領安堵伊賀上野藩立藩した。しかし、家康大坂城包囲する必要に迫られ近江彦根城同様重要な地点である上野城強固にすべく、家康は定次をかねてから不行状島清興などの重臣多く出奔され失策の多いのを理由に、慶長13年1608年6月領地没収磐城平城鳥居忠政のもとに預けた筒井騒動)。一説には、定次がキリシタン大名棄教聞き入れなかったためとも言われている。

※この「筒井氏時代」の解説は、「上野城」の解説の一部です。
「筒井氏時代」を含む「上野城」の記事については、「上野城」の概要を参照ください。

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