上野城の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/03/08 17:27 UTC 版)
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上野城の戦い | |
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![]() 復興天守(当時の城としての規模は現在の規模の3分の1ほど) |
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戦争:関ヶ原の戦い | |
年月日:慶長5年(1600年) | |
場所:伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市)上野城 | |
結果:西軍の勝利 東軍による上野城奪還 |
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交戦勢力 | |
西軍 | 東軍 |
指導者・指揮官 | |
開城時: 宇喜多秀家 毛利秀元 ![]() 吉川広家 ![]() 長束正家 恵瓊 鍋島勝茂 長宗我部盛親 ![]() 松浦久信 ![]() 奪還時: 新庄直頼 ![]() 新庄直定 ![]() |
開城時: 筒井玄蕃 ![]() 奪還時: 筒井定次 ![]() |
戦力 | |
開城時:30,000 奪還時:2,000+ |
開城時:不明 奪還時:2,800+ |
損害 | |
不明 | 不明 |
上野城の戦い(うえのじょうのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年(西暦1600年)に、伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市)の上野城を主戦場として行われた攻城戦。関ヶ原の戦いの前哨戦であった。
経緯
伊賀上野城は滝川雄利が天正9年(1581年)から天正10年(1582年)頃に築城した平山城である。それまでは豪族により築かれた砦、仁木氏の守護所、平清盛により創設された平楽寺があった。小牧・長久手の戦いで脇坂安治に落城させられた後には安治が伊賀守護として入ったが、まもなく摂津能勢郡へ1万石で転封となった。その次に筒井定次が大和から10万石で入り、大規模な改修を行った。
筒井定次は慶長5年(1600年)、徳川家康に従い会津征伐に参加していた。しかし7月18日頃に石田三成が伏見城で挙兵に及んだのを知ると、会津征伐は中止となり急遽引き返す事となった。その道中にて定次は上野城が新庄直頼・直定父子によって奪われたとの報を聞くと、家康に許しを請うて伊賀に引き返した。
経過
西軍は伊勢へのルートを確保に乗り出した。宇喜多秀家と毛利秀元率いる30,000人の西軍は上野城を包囲、圧倒的な兵力差に城代の玄蕃は怖じ気づいた。交戦は無くすぐさま開城し、留守居の筒井玄蕃(つついげんば、定次の実兄)は高野山へ逃走した。西軍は新庄直頼父子を上野城に入城させ、これを守らせた。新庄父子を除いた西軍は安濃津城攻略(安濃津城の戦い)へ向け伊勢街道を進軍していった。
秀家らが安濃津へ向かった後、新庄父子は定次が奪還に向けて引き返してくるのを知り、篭城戦に切り替えることにした。この状況を見て伊賀の土豪も定次の要請を受けて攻勢に切り替え、上野城を奪還すべく城を攻撃した。間も無く定次も帰還し、東軍は奮戦。新庄父子は苦戦し、落城は時間の問題となった。本隊からの援軍を得られないため新庄父子はこれ以上の抵抗は不可能と悟り、開城して居城へ撤退した。
上野城を奪還したことにより、東西の要所の1つであった伊賀は東軍の把握する所となった。これにより伊勢街道の一部(伊賀街道)が封鎖されたが、あくまでも名目上のものであった。例として、島津義弘が関ヶ原合戦後に逃走する際に伊賀をルートとして通っている事が挙げられる。また関ヶ原で僅か1日で決着が付いた為、これ以降明治まで上野城は再び攻撃に晒されることはなかった。
その後
筒井定次
上野城を奪還した定次は関ヶ原へ向かい、西軍と交戦し勝利した。後にその功で本領安堵・10万石(合計で20万石)加増を約束され、伊賀上野藩を立藩した。しかし、伊賀は石高が貧しい国であった為苛税を敷く必要があり、それに呼応して独立志向が高い土豪の反乱が頻繁に勃発した。関ヶ原の戦い以前には、大規模火災の復興問題を皮切りに家臣が二分され、遂に島左近が出奔した。更に定次は酒に溺れ、政治に真面目に取り組まなくなった。このように関ヶ原の戦い以前から不行状が絶えなかった為、慶長13年(1608年)6月に領地没収、磐城平城主鳥居忠政のもとに預けられた(筒井騒動)。後に大坂の陣で豊臣方に内通したという疑惑が掛けられ、切腹となった。
筒井玄蕃
上野城の留守居でありながら交戦せずに開城したことは責任重大とされ、玄蕃は切腹となった。
新庄直頼・直定父子
新庄父子は西軍に属して上野城を落とした罪により改易処分となり、身柄は蒲生秀行預かりとなるが、4年後の慶長9年(1604年)に赦免され直頼は常陸麻生藩3万石を与えられて立藩、直定は家康の家臣となる。慶長17年12月19日(1613年2月8日)に直頼は75歳で死去、2代藩主として後を継いだ直定は慶長20年(1615年)の大坂夏の陣には徳川方として参陣し、功を挙げた。元和4年4月21日(1618年6月13日)に直定が56歳で死去した後は嫡男の直好が継承、麻生藩は明治まで存続した。
脚注
- ^ 定次の実兄
参考文献
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