板垣氏関連年表
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 06:07 UTC 版)
板垣入道 - 1275年(建治元年5月)、『造六条八幡新宮用途支配事』文書の甲斐国に「板垣入道跡 三貫」とあり。他阿真教と活動を共にした「板垣入道」とも同時期の人物。 板垣三郎左衛門 - 1352年(観応3年閏2月)、武蔵野合戦の時、武田信武・信成に従い板垣三郎左衛門が参陣する。 板垣四郎 - 1352年(観応3年閏2月)、武蔵野合戦の時、武田信武・信成に従い板垣四郎が参陣する。 板垣兼光 ? - 1435年(永享3年6月)板垣氏が、常陸国久慈郡佐竹郷の長倉遠江守追討に参加する。 板垣兼光? - 1445年(文安2年)板垣松溪法貞禪定門が、於曽郷と萩原郷を向岳庵に寄進する 板垣善満 - 1490年(延徳2年12月17日)板垣善満が没する。 板垣備州 - 1502年(文亀2年12月10日)、板垣氏が願文を納める。 板垣備州 - 1515年(永正12年10月17日)、板垣備州が甲斐国上野城(椿城)で討死する(上野城の戦い)。 板垣伯耆守 - 1515年(永正12年10月17日)、板垣伯耆守が討死する(上野城の戦い)。 板垣信泰? - 1520年(永正17年6月10日)、板垣氏が武田信虎に従い大井信達勢と戦う(今諏訪の戦い)。 板垣左兵衛佐 - 1525年(大永5年2月25日)板垣左兵衛佐が、湯薬種田を寄進する。 板垣信泰 - 1525年(大永5年)板垣右兵衛尉信泰が、湯薬種田を向岳庵に寄進する。 板垣信方 - 1530年(享禄3年)、かつては、富士山二合目鎮座の冨士御室浅間神社の近くにあった騮ヶ馬場と、勝山(富士河口湖町)で行われ奉納されていた流鏑馬神事が、村間の争いが激しくなっていったため、板垣信賢(※板垣信方のこと)の達により、各々の村で奉納されるようになった(詳細は小室浅間神社の項を参照)。 板垣信方 - 1540年(天文9年3月)、板垣駿河守信方が、山梨郡宇多田を向岳庵に寄進する。 板垣信方 - 1540年(天文9年5月上旬)、武田信虎が、宿将・板垣信方に令して信州佐久の数城を陥し、前山城を築く。 板垣信方 - 1541年(天文10年)武田八幡宮宝殿棟札に「信方」の署名あり。 板垣信方 - 1542年(天文11年9月26日)、武田方駒井高白斎、伊那郡に入り藤沢口より福与城の藤沢頼親を降す。この時、板垣信方は伊那に進攻する。 板垣信方 - 1543年(天文12年4月6日)、武田晴信が、板垣信方を諏訪郡代に任じ、上原城を普請させ、信濃攻略の基地とする。 板垣信方 - 1543年(天文12年7月)、板垣信方が、諏訪上社権祝に対し、諏訪郡下桑原の御射山神田を安堵する。 板垣信方の母 - 1543年(天文12年8月23日)、板垣駿河の母が歿する。 板垣信方 - 1545年(天文14年6月1日)、板垣信方が加勢して竜崎城を陥す。 板垣信方 - 1545年(天文14年10月22日)、駿河・相模の和議を計るため、板垣信方、駒井高白斎が奔走する。 板垣信方 - 1547年(天文16年6月7日)、板垣駿河守信方が、山梨郡於曽郷の内、一貫二百文を向岳庵に寄進する。 板垣信方 - 1548年(天文17年2月14日)、板垣駿河守信方が討死する(上田原の合戦)。 板垣信憲 - 1551年(天文20年)、板垣弥次郎信憲と甘利左衞門尉昌忠が「両職」として在職していることを表す文書あり。 板垣信憲 - 1551年(天文20年7月)、板垣信憲が、甘利昌忠と連署で二宮造営の勧進状を発す。 板垣信安の父 - 1553年(天文22年4月23日)、於曽源八郎が討死する。 香坂宗重 - 1556年(弘治2年5月12日)、香坂宗重(筑前守)に八郎丸郷百貫之内、65貫400文を速かに奉納するべく求める。 板垣信憲 - 1557年(弘治3年7月)、信濃小谷城攻めに「板垣信憲」名前が見える。 板垣信憲 - 1557年(弘治3年8月)以降、板垣信憲が罪を蒙って誅されたため、板垣家は一旦断絶する。 板垣信安 - 1558年(永祿元年)頃、武田信玄の命によって、信方の女婿である「於曽左京亮信安」が、信憲の遺跡を嗣ぎ一旦断絶していた「板垣氏」を再興する。 板垣信安 - 1572年(元亀3年3月9日)、板垣左京亮信安が、「山梨郡板垣郷之内、五拾疋之所」を菅田天満宮に寄進する。 板垣信安 - 1572年(元亀3年6月)、板垣左京亮信安が、山梨郡於曽郷を冨士御室浅間神社に寄進する。 板垣信安 - 1572年(元亀3年)板垣左京亮信安が、六所明神に寄進する。 板垣修理亮 - 1582年(天正10年6月12日)板垣信安の嫡子・修理亮が、真田昌幸に仕える。 板垣正信 - 1590年(天正18年10月7日)、板垣信憲の嫡子・加助が、山内一豊に仕え、乾加兵衛正信と称す。 板垣修理亮 - 1600年(慶長5年)、主家・真田昌幸が、関ヶ原の戦いで西軍についたため改易となり、召抱えを解かれる。 板垣喜右衛門 - 1602年(慶長7年)板垣喜右衛門が、山内一豊に召し抱えられる。 板垣半右衛門 - 1605年(慶長10年)、板垣修理亮の子・半右衛門が、堀尾忠晴に仕える。 諸星信茂 - 1635年(寛永12年)、板垣修理亮の外孫・諸星信茂が、幕府・御書院番与力に召し加えられる。 板垣知貞 - 1651年(慶安4年)、板垣知貞が前田利常に仕え、以後代々加賀藩士となる。
※この「板垣氏関連年表」の解説は、「板垣氏」の解説の一部です。
「板垣氏関連年表」を含む「板垣氏」の記事については、「板垣氏」の概要を参照ください。
- 板垣氏関連年表のページへのリンク